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後鳥羽上皇~天皇親政を目指した文武両道の上皇~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第23回


院政を敷き長きにわたって権力の座に君臨しながら、鎌倉幕府に叛旗をひるがえした後鳥羽上皇。その狙いは武家政権の打倒だったのか?


「承久の乱」に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流罪となり、彼の地で失意のうちに永眠する。
イラスト/宇野市之丞

 

 後鳥羽天皇(ごとばてんのう。後に上皇)は、治承4年(1180)、源頼朝が平家追討の旗揚げをした年に高倉天皇の第4皇子として誕生した。名前は尊成(たかなり)親王という。平家が奉じた安徳天皇と並立という形で元暦元年(1184)に即位して第82代天皇となった。

 

 翌年には、平家が源義経によって壇ノ浦で滅びる。建久3年(1192)、13歳の時に後白河法皇(ごしらかわほうおう)が没し、同じ年に源頼朝を征夷大将軍に任じた。建久9年(1198)、後鳥羽天皇は息子の土御門(つちみかど)天皇に譲位して上皇になり、院政を開始した。まだ19歳という若さであった。この土御門天皇も承元4年(1210)に弟の順徳(じゅんとく)天皇に譲位したが、後鳥羽院は引き続き院政を行った。

 

 後鳥羽院は、和歌所を二条殿に設置し、藤原定家らに『新古今和歌集』を撰進させるなど、和歌・文藝に大きな足跡を残したが、それと同等に武芸にも秀でていた。天皇・上皇でありながら、いわば文武両道の英才であった。後に「承久の乱」を画策する芽は既に若い頃から胚胎していたのである。

 

『古今著聞集』には、後鳥羽院が交野八郎(かたのはちろう)という強盗団の首領を、水の上での大捕物によって逮捕したことが記されている。「船の櫂(かい)を片手に軽々と打ち振って指揮する院の姿に参った」という八郎の告白に、後鳥羽院は罪を許して中間(ちゅうげん)に取り立てたというエピソードが載る。

 

 また刀剣への愛着は深く、御所に全国から有数な刀鍛冶(かたなかじ)を召して「御番鍛冶」として失われた宝剣を再現しようと自ら指揮して「菊花」の銘入りの太刀を焼かせた。これは「御所(ごしょ)焼き」「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、現代にまで伝わる名刀である。院は、機嫌の良い時には公家や北面の武士たちに与えたという。

 

 3代将軍・実朝が建保7年(1219・承久元年)1月27日に鶴岡八幡宮で暗殺される。これ以前に子のない実朝の跡目として後鳥羽院の第2皇子・頼仁親王を鎌倉幕府・北条政子は所望していたが、実朝の死を契機として後鳥羽院は、北条氏が操る幕府を滅ぼそうと考えた。京都守護であった北条義時の義弟・伊賀光季(みつすえ)を殺し、北面の武士による倒幕軍を挙げ、5畿(大和・山城・河内・摂津・和泉)7道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)諸国に「義時追討」の宣旨を下した。

 

 だが、政子が「朝敵と呼ばれるのは口惜しい。頼朝の音は計り知れず、その頼朝はじめ3代将軍の墓を京都の軍勢の蹄に掛けさせてよかろうか」と叫んだことなどが鎌倉御家人の結束を呼び、結果としてこの承久の乱は鎌倉側の勝利に終わった。

 

 最高責任者の後鳥羽院は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇も土佐に流された。後鳥羽院は、この年8月5日隠岐国海部郡刈田郷の配所に入った。その際に詠った和歌がある。

 

「われこそは新島もりよ沖の海の荒き波風こころして吹け」

 

 以後、都に戻る望みを持ちながら19年を過ごし、延応元年(1239)2月22日、文武両道の達人法皇・後鳥羽は、この地で永眠する。60歳であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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