新選組に惨殺された伊東甲子太郎の実弟・鈴木三樹三郎とは
新選組隊士の群像【第8回】
「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第8回は油小路(あぶらのこうじ)の変で惨殺された伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の実弟・鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)。

油小路の変で伊東甲子太郎が殺害された御陵衛士は、その活動を停止する。生き残った三樹三郎らは、新選組への報復を計画。鳥羽伏見の戦い直前、伏見に移動中の近藤勇を発見、狙撃する。写真は近藤勇が狙撃された場所に残る石碑(京都市伏見区)。
(鈴木)三樹三郎(1837~1919)は、常陸国の志筑(しづく)藩士・鈴木武明の二男として生まれた。2歳年長の兄が、伊東甲子太郎である。江戸深川にあった兄の伊東道場(北辰一刀流)で剣術の稽古にいそしんでいたが、元治元年(1864)10月、兄(伊東甲子太郎)が藤堂平助(とうどうへいすけ)の勧めに従って新選組に入隊した際に三樹三郎も一緒に上京した。名前は三木荒次郎、三木三郎、(鈴木)三樹三郎と何度も変えている。
新選組では副長助勤、9番隊帳などを務めたが、その性格は穏和で書物を読み、漢学の素養もある知的な好青年とされる。実際に隊内ばかりか隊外での評判も良い、珍しい新選組隊士であった。常に黒羽二重(くろはぶたえ)を好んだ粋な通人・三樹三郎にはこんな逸話もある。
将軍・家茂(いえもち)の上洛の際に、市中の混乱を避けようと大坂天満宮など5社が大坂夏祭りでの御輿(みこし)順行を取り止めようとした。その5社の代表者との対応をしたのが、知的な三樹三郎だった。三郎は自粛を聞いて「いや、将軍警固はしっかり新選組でやるから、むしろ祭りは盛大にやられた方がよろしかろう」と応えた。この対応が5社代表にとって「ものすごく鄭重で快かった」として賞賛されたというのだ。恐れられていた新選組の中でも、三郎ほど敬愛された隊士はいなかったという。
後に兄・伊東甲子太郎が新選組の分派を造り、御陵衛士(ごりょうえじ/高台寺党と呼ばれた)になった際に、三郎も行動を共にした。そして、慶応3年(1867)11月18日の「油小路の決闘」事件では、新選組に謀殺された兄の遺骸をただ1人で引き取りに赴くところを仲間が止めて、7人で行くことになった。そして油小路で新選組との乱闘になった(詳細は第5回「服部武雄」の項を参照)。
この乱闘を無事に逃げ延びた三郎ら4人は、伏見の薩摩屋敷に匿われ、新選組への復讐の機会を狙い12月17日、伏見の墨染で近藤を狙撃して重傷を負わせた。鳥羽・伏見の戦いでは、三郎らは薩摩軍に加わって戦い、その後は「赤報隊」に所属、大抜擢で2番隊長を務めた。だが、その1番隊長として官軍の先駆けをした相楽総三(さがらそうぞう)は「ニセ官軍」の汚名を記着せられて信州・諏訪で処刑されたが、危ういところで三郎は助かっている。
明治維新後のある日、東京・両国橋の上で三樹三郎は新選組の永倉新八(ながくらしんぱち)と出会った。油小路の決闘にも参戦していた永倉は旧藩の松前藩に帰参して東京の藩邸に住んでいた。2人は挨拶を交わし、三郎の問い掛けに永倉は松前藩邸にいることを喋ってしまった。この後、三郎は永倉を付け狙ったが、永倉が隠れたために討つことはできなかった、と永倉の『新選組顛末記』に記されている。
三郎は、官軍の軍曹になり、さらに警察や司法の世界に身を投じ山形県の鶴岡警察を得て、酒田警察署長などを歴任した後に、茨城県石岡町に隠棲したという。そして大正八年(1919)七月11日、死去。享年83。兄の分まで長生きをした穏和な新選組隊士であった。