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坂本龍馬暗殺の容疑者といわれ「人斬り」の異名を持った新選組隊士「大石鍬次郎」とは⁉   

新選組隊士の群像【第3回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第3回は新選組の武闘派・大石鍬次郎(おおいしくわじろう)。


写真は元新選組隊士・伊東甲太郎が暗殺された本光寺門前(京都市下京区油小路)。
大石鍬次郎が繰り出した槍が致命傷になった。伊東の遺体は打ち捨てられ、それを
引き取りに来た御陵衛士と新選組の間で壮絶な斬り合いが生じた(油小路の変)。

 大石鍬次郎(1838~1870)は、江戸の人。一橋家家臣・大石捨二郎の長男として生まれた、新選組にはあまりいないエリートの出身でもある。ところが若い頃に女性問題を起こし、武士を捨てて大工になるという過去を持つ。その大工仕事が新選組との縁の始まりとなった。

 

 大石は、日野にいた土方歳三の義兄・佐藤彦五郎(さとうひこごろう)の屋敷建設に赴いた。元来が武士であり、小野派一刀流を学んだことのある大石は、佐藤邸の一角にあった道場に出稽古にやってくる近藤勇と知り合い、そのまま試衛館の門人となった。

 

 新選組に入ったのは元治元年(1864)10月のことである。この年の6月には、新選組の名前を一気に高めた「池田屋事件」があり、7月には長州藩の軍勢と会津・薩摩の軍勢とが戦った「禁門の変」が起きている。さらに8月には、幕府による第1回長州征伐も開始された。こうした騒がしい世情の最中に、大石は近藤との縁で新選組に入隊した。

 

 大石への近藤の信頼は厚く、入隊後は1番組に属した後に諸士調役兼監察(しょししらべやくけんかんさつ)という山崎蒸(やまざきすすむ)島田魁(しまだかい)らと同様の役職に就いている。その性格は執念深く、どのような激しい闘争にも動じない冷静さを常に持ち続けたという。小野派一刀流と天然理心流の2つを学んだ大石は、新選組の内外で「武闘派」として知られるようになっていく。それが大石をして「人斬り」という新選組の中でも最強の異名を付けられた理由であった。

 

 その後、土佐藩士らとの激闘があった「三条大橋高札(こうさつ)事件」や坂本龍馬(さかもとりょうま)暗殺に端を発した「天満屋(てんまや)騒動」、さらには伊東甲子太郎(いとうかしたろう)一派(御陵衛士・高台寺党)と戦った「油小路(あぶらのこうじ)暗殺事件」など血生臭い事件や騒動には、必ずといってよいほど大石は参加して、多くの敵を斬り倒している。

 

 油小路の暗殺では、伊東らの遺体を引き取りに来た御陵衛士(ごりょうえじ)らも大石は惨殺しているため、大きな怨みを買ったのだった。

 

 こうした汚れ仕事を一手に引き受けた感のある大石が、実は「マイホーム・パパ」という意外な一面もあった。新選組入隊前に武州・日野で結婚し、男児1人の父親になっていた大石は、入隊後には妻子とともに京都で暮らした。非番の日などは、妻子と仲良く暮らす姿もあったという。

 

 大石は、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を名乗った近藤に先駆けて甲州に進軍したが官軍との戦いに敗れ、江戸に逃げ戻った。後に明治政府によって捕縛され、坂本龍馬暗殺容疑などの取り調べを受け、明治3年10月、処刑された。32歳であった。        

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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