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不治の病を抱えながら新選組をリードした天才剣士‟沖田総司”

新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第4回


優れた剣術の腕前などから、新選組の隊士の中でも屈指の人気を誇る沖田総司。不治の病を抱えながら、幕末を駆け抜けたその人生は、いかなるものだったのだろうか?


剣の腕前は新選組の中でもトップクラスで、映画、ドラマなどイケメン剣士として描かれることが多い沖田総司。近藤勇や土方歳三のように写真はなく、残された資料にもその容貌がはっきりと記されたものは存在しない。謎多き隊士のひとりだ。イラスト/宇野市之丞

 沖田総司は天保15年(1844)5月、陸奥白河藩の藩士だった沖田勝次郎の長男と江戸下屋敷で生まれた。惣司が4歳の時に父が死亡したため、沖田家は姉婿・林太郎が継承し、惣司は9歳で天然理心流・近藤周平(後に勇の養父)の内弟子になる。試衛館では、近藤や土方らより剣の腕は上だったといわれる。試衛館や新選組の同僚でもあった永倉新八(ながくらしんぱち)でさえも沖田には一目を置き「本気で立ち合ったら師匠の近藤さんでも適わなかっただろう」と語っているほどだ。19歳で免許皆伝となり、師範代として指導するほどになった沖田は、あくまでも寡黙な青年であったという。ただただ近藤を敬愛しており、浪士組結成にも当然のことながら、近藤に従った。

 

 沖田の素顔は、子どものような無邪気さを持ち合わせ、誰からも好かれる好青年であった。「壬生浪(みぶろう)」と恐れられた新選組隊士の中で、子どもからも慕われたのは沖田くらいであったろうといわれている。沖田にも恋があった。相手は京都の町医者の娘であった。しかしこの恋は実ることなく終わっている。

 

 新選組では、副長助勤から1番隊長となり、率先して敵(尊王攘夷派の志士など)と戦った。ただし、沖田は不治の病を持っていた。肺結核である。この病気が沖田の体内で密かに進行していた。池田屋事件でも、近藤とともに斬り込みながら、敵との斬り合いの最中に喀血して昏倒したともいわれる。

 

 沖田の新選組1番隊長としての活躍も「鳥羽・伏見の戦い」までであった。幕府軍が薩長軍(新政府軍)に敗れたこの戦い以降、病気の進行によって沖田は戦いの場には立てなくなっていた。近藤の新選組最後の戦いとなった甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)の勝沼・柏尾戦争にも、沖田は参戦できなかった。この時期になると江戸に戻っていた沖田は、御典医・松本良順(まつもとりょうじゅん)の診療所で養生するようになっていた。江戸・千駄ヶ谷の植木屋・柴田平五郎の離れで暮らすようになる。同じ頃、沖田が慕った近藤は下総・流山で新政府軍に捕縛され斬首と成っていた。近藤のことを心配する沖田に、周囲は本当のことを言えなかった。

 

 沖田は、結局知人友人らに看取られることもなく、植木屋の離れで一人静かに短い生涯を閉じる。子母澤寛の『新選組始末記』や司馬遼太郎『新選組血風録』などによれば、沖田は1匹の黒猫を斬ろうと狙っていたが、とうとう最後まで斬れずに事切れたという。慶応4年(1868・明治元年)4月29日、猫を斬ろうと愛刀に手を掛けたまま「斬れない」と言いつつ布団の中に倒れ込んだ沖田だったが、翌日の30日も世話をしてくれていた付き添いの老婆に「あの猫は今日も来ているだろうなあ」とうわごとのように言って、刀を引き寄せたまま、その夕方に息を引き取った。沖田総司、享年25。

 

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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