無骨で政治力の乏しい‟近藤勇”は、なぜ新選組のトップになれたのか?
新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第2回
ただ一人のリーダーとして実直に振舞った新選組隊長

本当の武士ではなかったからこそ、「局中法度」を制定し武士らしい振る舞いを徹底した新選組。近藤はそのトップとして厳格ながら、人を惹きつける人徳を備えていたと伝わる。国立国会図書館蔵
近藤勇の本名は、宮川勝五郎という。天保5年(1834)、武蔵国多摩郡上石原村(現、調布市)で農家の三男として生まれた。子どもの頃からガキ大将として近隣でも知られ、後に天然理心流3代目・近藤周助の門人になり、養子となって「近藤」姓を名乗った。近藤は腕も立つが、人柄もおおらかで大まか。慕ってくる人間を誰でも受け入れてしまう懐の深さもあった。言い方をかえれば「存在感は大きいが単純明快」という性格であった。
生まれ育った武州三多摩という地域は、八王子千人同心の地元でもあり、徳川幕府・将軍家の直轄地とあって、幕府への忠誠心にも富んでいた。道場・試衛館は江戸の市ヶ谷にあり、そこには土方歳三・沖田総司・山南敬助(やまなみけいすけ)の他に、原田左之助(はらださのすけ)・藤堂平助(とうどうへいすけ)・永倉新八(ながくらしんぱち)などが食客(しょっかく)として逗留(とうりゅう)していた。
文久3年(1863)の春、幕府が上洛する将軍警固の浪士隊を募集した際に、近藤は日野宿の天然理心流道場(別派)にいた井上源三郎を誘って8人で応募した。京都への度の途中で、水戸天狗党の生き残りを自慢する芹沢鴨との確執などもあったという。
結果として、浪士隊は京都で解散となるが、近藤は、芹沢一派や殿内義雄一派らと京都に残り、浪士隊を結成する。この浪士隊は、京都守護職(会津藩・松平容保)の直轄組織に組み込まれ、守護職の先鋒のような働きを期待される。組織名も「新選組」となった。
この時点で、京都は「尊王攘夷」を掲げる反幕府側の諸藩の浪士たちで満ち、市中ではテロ集団もいて、昼日中から斬り合いもある殺伐な雰囲気であった。こうした反社会的な浪士たちを取締り、京都の治安を守る。これが新選組に課せられた任務であった。そのためには、浪士を斬り捨てることも許されていた。やがて、市中で乱暴な行動を取るなど新選組の中の反社会的な存在であった芹沢一派を粛清した試衛館組は、近藤をただ一人のリーダーと決めて団結を図る。
そんな折の元治元年(1864)夏、新選組にとって一躍名前を上げることになる事件が起きる。不逞(ふてい)浪士と見られていた長州藩士が市内に潜伏し、祇園祭を利用して市中に火を掛け、孝明(こうめい)天皇を長州に拉致する計画を新撰組は知った。不逞浪士の会合場所は、2個所に絞り込まれたが、病人の続出などで新選組隊士の数が少ない。そんな中で近藤は土方と相談し、隊士を二手に分けた。近藤は沖田、永倉、藤堂ら精鋭10人で三条小橋西の「池田屋」に向かった。池田屋では、宮部鼎蔵(みやべていぞう/肥後)、吉田稔麿(よしだとしまろ/長州)、北添佶麿(きたぞえきつま/土佐)など20人前後が会合しており、近藤らの急襲で阿鼻叫喚の場となった。
この池田屋事件は、「京都を火の海から守った男たち」という位置付けから、新選組の名前を一挙に高めることになった。
だが、こうした新選組の働きは幕府の劣勢立て直しには繋がらず、慶応3年(1867)には大政奉還となり、翌年の鳥羽伏見の戦いを最後に、近藤らは江戸に戻る。江戸で近藤は再挙を期すが、若年寄・大名格として甲府城入城(甲陽鎮撫隊/こうようちんぶたい)を勝海舟によって示唆され、これが甲州勝沼での柏尾戦争という半日で新政府軍に敗れ去る戦いとなった。この最後の戦いの後、近藤は下総流山(千葉県流山市)で捕縛され、慶応4年4月25日、斬首される。近藤勇、享年35。