‟土方歳三”は勝算の少ない会津・函館戦争を、なぜ最後まで戦い抜いたのか?
新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第3回
最後まで「剣」を離すことはなかった“鬼の副長”

近藤をトップに据え、自らはフィクサーとして新選組の基盤作り、運営に徹した土方。剣客としても名を馳せたが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れると、刀槍による戦闘の限界を痛感。野砲や新式銃を主体にした近代戦への研究に励んだ。国立国会図書館蔵
新選組といえば、誰よりも知られている存在が、「鬼の副長」と恐れられた土方歳三ではないだろうか。司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』で描かれた、ストイックなまでその剣客として一途に生き抜いた生涯が、現代人の共感を呼んでいるようだ。男女共生時代には古くなっているかも知れないが「男の生き様」を、新選組という組織の中で具現した。
歳三は、天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田村(現、日野市)で生まれた。本名を義豊(よしとよ)というが、歳三で生涯を通した。家業は薬剤を扱い、打ち身骨折の妙薬とされる「石田散薬」を歳三も一時は行商として売り歩いていた。子どもの頃から剣術が好きで、江戸の試衛館に寄宿してめきめきその腕前を上げ師範代を務めた。近藤勇にとって片腕以上の存在であり、文久3年(1863)春の浪士隊上洛にも同道し、新撰組結成後には「副長」となって、組織を切り盛りした。歳三は、剣ばかりでなく和歌・俳句・書などの趣味を持っていた。『豊玉発句集』という俳句集も残しているほど。「公用に出ていく道や春の月」「しれば迷ひ しなければ迷はぬ 恋のみち」などという俳句もあるが、さほど上手な句ではないものが多い。
「局中法度(きょくちゅうはっと)」という新選組の規律を作ったのも、歳三だという。その法度とは、「士道に背くまじこと」「局を脱するを許さず」「勝手に金策を致すべからず」「勝手に訴訟扱うべからず」「私の闘争を許さず」の5則で、この条々に背いた者は切腹である、という但し書きもある。事実、この規律に背いたとして39人もの隊士が切腹させられている。切腹を平然として命じ、実行に移したことから歳三には「鬼の副長」という異名が付いた。
歳三は、新選組の活動6年間を通じてナンバー2の「副長」として君臨した。また実質的な統率者として常に先陣に立ち、敵と戦った。だが、慶応4年(1868。9月から明治元年)1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍にいた新選組と義三は「もう槍や刀の時代ではない。これからは大砲と鉄砲だな」という実感を近藤などに伝えている。
江戸に戻った新選組は、勝海舟の口車に乗せられて「甲陽鎮撫隊」という名前を名乗って甲府城接収に立ち上がった。そして、官軍(新政府軍)との戦いを前に、援軍を求めて歳三は神奈川に使者として赴いた。その間に甲州の勝沼で柏尾戦争として官軍と激突、僅か半日で敗れ去った。近藤は、そのまま江戸に戻り、さらに下総流山で歳三とも別れた勇は逮捕され、斬首される。歳三は、榎本武揚(えのもとたけあき)が率いる旧幕府艦隊で北上、宇都宮城争奪戦では負傷したが、その後も会津戦争を戦い、さらには蝦夷地(えぞち)に向かい箱舘(函館)・五稜郭で戦い続けた。ここでは、陸軍奉行並という陸軍のトップとして戦う。鉄砲や大砲の威力を認めながら、歳三は最後まで「剣」を離すことはなかった。
そして明治2年(1867)5月11日、官軍の総攻撃が始まった。午前9時過ぎ、歳三は馬上で愛刀「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」を振りかぶって名乗った。「新選組副長、土方歳三である」。瞬間、飛来した銃弾が歳三の腹から腰にかけて貫通した。馬から転がり落ちた歳三は、そのまま事切れた。最後まで新選組副長として戦った男の「戦死」であった。土方歳三、享年35。