「新選組」は、なぜ会津藩直属の組織になったのか?
新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第1回 序章
「誠」一字の旗印のもと、忠義に尽くす武闘集団

新選組の隊服とされるだんだら模様の羽織だが、近年の研究では黒い装束を隊服にしていたとする説が主流である。イラスト/永井秀樹
新選組の活動期は、文久3年(1863)から明治2年(1869)までの僅か6年間だが、その6年間は日本が徳川幕府から明治時代という近代国家に脱皮しようとする、歴史上も最も動乱する「疾風怒濤(しっぷうどとう)」といわれるような時代であった。
新選組結成の10年前、嘉永6年(1853)6月にアメリカ東インド艦隊の司令官、マシュウー・ペリーが艦隊4隻を率いて浦賀に入港した。この日を境に、日本国内は「尊王」「佐幕」「攘夷」「開国」という様々な考え方・思想が入り乱れ、混沌とした状況にあった。こうした考え方から徳川幕府にも朝廷にも「公武合体(こうぶがったい)論」という折衷(せっちゅう)案が出るようになっていた。そして、政治の舞台が江戸から京都に移るようにもなった。
そんな折の文久3年2月、将軍・家茂(いえもち)が攘夷の勅使に応じて上洛することになり、その護衛を目的とした浪士隊が結成されることになった。
当時、江戸には玄武館(北辰一刀流・千葉周作)、志学館(鏡心明智流・桃井春蔵)、練兵館(神道無念流・斎藤弥九郎)があり「3大道場」と呼ばれていた。そうした中にあって、小石川に「試衛館」(「試」ではなく「誠」の誠衛館であったという説もある)これから新選組の旗印が「誠」になったという説の方がピンと来るようではあるが。
試衛館の天然理心(てんねんりしん)流は、近藤勇(こんどういさみ)で4代目。養父・周助が多摩郡小山町にあった道場を江戸に移した。だが、地域がら弟子には八王子千人同心やその子弟などが多かったことから「田舎剣法」と揶揄されていた。弟子には土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)、井上源三郎(いのうえげんざぶろう)などがいた。
文久2年に「浪士組」の話が試衛館にも持ち込まれた。近藤勇は、弟子や仲間を率いてこれに参加。50人の予定だった募集人員が300人も集まり、結果として234人が京都に向かった。ところが、京都に着くとリーダーであった清河八郎(きよかわはちろう)が「目的は将軍警固ではなく、攘夷断行にある」と変節を断言。結果的に分裂した浪士隊は、近藤ら8人の試衛館組、芹沢鴨(せりざわかも)ら5人の水戸浪士組、これにあまり知られていないが殿内義雄(とのうちよしお)・家里次郎(いえさとつぐお)の第3派閥組11人の合計24人が京都に残留した。残留した24人のうち、第3派閥組はすぐに粛清され、残った13人が会津藩・京都守護職預かり(直属組織)となった。
さらには芹沢一派も粛清され、近藤と土方による試衛館メンバーによる「新選組」(「」新撰組」とも記されるが、本稿では新選組としたい)が組織された。この新選組は最初京都・壬生(みぶ)村に屯所を構えたことから「壬生浪士」「みぶろ」と呼ばれるようになった。トレードマークともいえるだんだら染めの羽織と「誠」一字の旗印も、結成当初から使った。「誠」は「誠忠(真心からの忠義)」から取ったとされる。浪士組の熱い想いが込められたという。
そして新選組は、池田屋事件・大政奉還などを経て土方らが箱舘・五稜郭の戦いで戦死した明治2年5月まで、6年間の活動が始まるのであった。