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新選組の後ろ盾となった会津藩藩主 “松平容保”

新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 番外編


「壬生浪士組」結成から会津戦争まで、松平容保(まつだいらかたもり)の会津藩と新選組は尊皇派浪士、さらに薩長両軍と激しい戦いを繰りひろげた。容保なくして新選組は存在せず、彼こそが新選組の主君であった。


 

鳥羽伏見の戦いに敗れた松平容保はなおも抵抗を続け、会津で新政府軍に徹底抗戦する。新選組からは生え抜きの土方歳三、斎藤一などが参戦。士道に殉じこの地で多くの隊士が戦死した。

 

「京都守護職として新選組を擁した会津藩主」

 

 9代会津藩主・松平容保は、京都守護職に任命されたが、尊攘派による京都の治安悪化に頭を痛めていた。将軍警固の浪士組が壬生に残って浪士組となったのを知り、治安維持のために壬生浪士組を守護職の懐に抱え込んだ。これが後に新選組になる。

 

 容保は、天保6年(1835)12月29日、美濃国高須藩主・松平義達の6男として生まれた。弘化3年(1846)、11歳の時に会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となり、18歳で家督を継承した。会津・松平家には始祖・保科正之による「託孤(たっこ)の遺命」という家訓があった。それは、正之が信州高遠城主であった時に、異母兄である3代将軍・家光から会津藩主として転封という厚遇を受けた。その時の恩を未来永劫忘れてはならぬ、徳川家には藩を挙げて尽くすべし、というのが「託孤の遺命」であった。

 

 その後の藩主は誰もがこの遺命を遵守してきたが、最もこの遺命を守り通したのが9代藩主となった容保であった。

 

 文久3年(1863)3月、江戸から将軍警固のために上京してきた浪士組が解散した後で、京都に残った試衛館派と水戸派の浪人たち(近藤勇・芹沢鴨ら)が、京都守護職に宛てて嘆願書を出し、会津藩家老に黒谷の金戒光明寺に招かれ挨拶した。翌日には容保に拝謁し「今後は会津藩士と力を合わせ、よろしくやってほしい」と協力要請された。

 

 ここから新選組(正式には同年8月18日以降)の京都での活躍が始まる。

 

 容保は、武芸上覧が好きで何度も新選組を招いては剣の妙技を見た。芹沢鴨・永倉新八の神道無念流、藤堂平助らの北辰一刀流、近藤らの天然理心流などの剣術に、容保は感動し、高く評価した。「8月18日の政変」と呼ばれる出来事で、それまで朝廷を牛耳っていた長州藩を、容保の会津藩は薩摩藩と協同して京都から追い払った。この事件には新選組(正式には壬生浪士組)の52人も出動した。この直後に、容保から「新選組」という名前を与えられて、正式に京都守護職・会津藩麾下の特別治安部隊という位置付けになった。同時に、新選組隊士には多くの給与も支払われるようになった。

 

 この後、池田屋事件などがあって新選組は容保の期待に応えて働いた。だが、慶応3年(1867)10月に15代将軍・慶喜が「大政奉還」すると、容保も新選組も厳しい時代を迎えることになる。容保は京都守護職の座を追われ、新選組も翌年の鳥羽伏見の戦いを最後に、京都での活動が終わるのであった。

 

 ここから戊辰戦争が始まり、その最大の戦いが容保の会津藩を薩長の官軍が包囲して戦った「会津戦争」(白虎隊などの奮戦)になる。この戦いには土方歳三など新選組の生き残りも参戦したが、結局敗戦となり容保は幽閉される。「託孤の遺命」を最後まで守ろうとした容保は、官軍に恭順した慶喜とは異なる道を進んだことになる。

 

 後に容保は赦免されて、日光東照宮の宮司などを歴任して、明治26年(1893)12月5日、亡くなる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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