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鳥羽伏見の戦いで散った近藤・土方の兄貴分 “井上源三郎”

新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第9回


「源さん」の愛称で親しまれた井上源三郎(いのうえげんざぶろう)。彼は幕末最強の剣客集団の生え抜きにもかかわらず、武功に関するエピソードが少ない異色の隊士だ。新選組でどのような存在であったのかを浮き彫りにする。


 

新選組では副長助勤、6番隊組長をつとめた井上源三郎だが、武功よりも「温厚」「親身」など人柄に関するエピソードが多く残る。殺伐とした武闘派集団の中で、井上がかけがえのない存在であったことが窺える。

 

 井上源三郎は文政12年(1829)3月、日野宿の千人同心・井上家に3男として生まれた。兄2人が天然理心流・近藤周助の道場に入門していた関係で、源三郎も10代の終わり頃に入門して土方歳三の義兄・佐藤彦五郎の手ほどきを受けた。3男坊の源三郎は、農業の傍ら暇を見ては剣術の修行に励んだという。温厚で無口な源三郎だが、日野宿で私塾を営む千人同心頭・日野嘉蔵から学問を教わり、教養も高かった。

 

 年齢は近藤勇よりも5つ年上で、新選組では誰からも慕われ、みんなの兄貴分のような存在であった。原田左之助・永倉新八・沖田総司らのような派手さはないが、こうと決めたら真っ直ぐに突き進むという一途さが、源三郎の心を支えた。

 

 元治元年(1864)6月5日の池田屋騒動にも参加した。少人数で池田屋に斬り込んだ近藤らの加勢として駆け付けた源三郎らは、池田屋の二階に素早く駆け上がると、長州藩士1人を斬り倒して捕縛した。そのいきり立った様子を、後に永倉新八が語っているほどである。いつもは物静かな源三郎だけに、その興奮しての奮闘は、永倉などの目には別人のように映ったのであろう。

 

 新選組では副長助勤(ふくちょうじょきん)という立場にあったが、この池田屋騒動の後に、6番隊組長となる。その後は、華々しい活躍は記されてはいないが、土方らとともに江戸に出て隊士募集などの地味ながら、幹部隊士として重要な事柄を仕切った。同じ隊士の中に甥・井上泰助がいた。泰助にも源三郎は「優しい叔父さん」であったろう。

 

 慶応3年(1867)10月、将軍・慶喜が「大政奉還」して、12月の小御所会議で「王政復古」が決まると、新選組は伏見奉行所の警備を命じられた。京都市中には薩摩・長州などの軍勢が銃や大砲など新式の武器を持って進駐してきていた。

 

 慶応4年1月3日、薩摩・長州に乗せられた幕府軍1万5千が鳥羽街道を京都に向けて進み、薩摩軍と戦端が切られた。新選組もこの戦さに巻き込まれた。

 

 しかし、新選組の装備は刀や槍であり、近代的な兵器を装備した薩摩軍には抗す術もない。淀堤千両松に布陣していた新選組は、大坂から全軍引き上げの命令があったにもかかわらず、源三郎は「幕府への恩を返す時は今」として、戦い続けた。そして、1発の銃弾が源三郎を直撃した。共に戦っていた甥・泰助は「叔父さんは、撃たれて倒れると手当をする間もなく息を引き取ってしまいました」と語り残している。

 

 源三郎が戦死した場所には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が建てられている。井上源三郎、享年39。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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