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小樽で晩年を過ごした 新選組生き残りの剣士 “永倉新八”

新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第7回


新選組の、生え抜きのひとりであった永倉新八(ながくらしんぱち)。池田屋事件、戊辰戦争を戦い抜き、晩年は新選組の語り部となった波瀾万丈の剣客人生に迫る。


 

剣士ぞろいの新選組の中でも、その剣術の腕前が三本の指に入っていたとされる永倉新八。池田屋事件や鳥羽伏見など数多くの戦いで、その凄腕を発揮。常に修羅場に身をさらしながら、生き残った幕末を代表する剣士のひとりだ。

 

 永倉新八は、試衛館時代からの新選組隊士としては、斎藤一(さいとうはじめ)と並んで長生きをした「生き残り組」の1人である。後には『浪士文久報国記事』『七カ所手負場所顕ス』『新選組顛末記』など新選組時代の記録ともいえる著作を残している。

 

 永倉は、天保10年(1839)9月、松前藩士の子として江戸で生まれた。15歳で剣術修行を始め、18歳で神道無念流の本目録を受けた。以後も修行は続けたが、元々は血の気が多く、総武地方(千葉・埼玉など)で道場破りをやるなど、散々に暴れまくっている。後に近藤勇の試衛館に転がり込んで寄宿するようになる。

 

 文久3年(1863)正月、上洛する将軍・家茂(いえもち)の護衛として幕府が浪士組を募集しているのを知った永倉は、この情報を近藤にもたらし、身分も年齢も問わない募集だと知らせた。多摩地方の農民上がりの近藤にとっては、武士になる絶好のチャンスだと思わせる永倉の誘いに乗った近藤は、土方歳三・沖田総司・井上源三郎らを誘って浪士組に入った。京都に着いてから浪士組は分裂し、壬生に残留した少数が「新選組」を結成した。

 

 この新選組は、当初3つの派閥があったが、1つは粛清され、残ったのが水戸出身の芹沢鴨(せりざわかも)一派であり、もう1つが近藤の試衛館組であった。永倉は、剣術の流派は芹沢と同じ、心情的には近藤寄りというバランスの危うい関係性だった。

 

 2番組組長となった永倉は、新選組のあらゆる戦いに参加、奮戦している。元治元年(1864)6月の池田屋騒動でも、近藤・沖田・原田らと共に斬り込み、大活躍をした。長州藩士など20数人に対して斬り込んだ新選組は7人。永倉は、大立ち回りを演じて、親指の肉を削ぎ落とされ、着衣は襟から胸に掛けて切り裂かれ、刀は折れるまで戦い、的の刀を拾ってなお斬り合いを続けたという。

 

 これ以後の永倉は、近藤との確執が生まれてくる。「新選組隊士には上下関係はない、ましてや試衛館以来の我々は同士である」とする永倉には、近藤が徐々に慢心していき、隊士をまるで家臣のように扱うことが鼻についてきた。結果として、斎藤一や原田左之助らと共に、脱退も辞さない気持で京都守護職の会津藩主。松平容保(まつだいらかたもり)に直訴する。容保の取り成しで一応収まるが、溝は深まったままで慶応4年(1867)を迎える。

 

 「甲陽鎮撫隊」と名乗って甲府城接収に向かった新選組は、勝沼戦争で敗戦。その後、永倉らは近藤と袂を分かった。「靖兵隊」を指揮して幕府軍に加わるなどしたが、生き延びて江戸に落ち延び、さらに松前藩士として帰参し、小樽に行き「杉村善衛」の名前で生きる。札幌北部にあった樺戸監獄の剣術師範などを務めながら、新選組の生き証人を自認して、大正4年(1915)まで生き、1月5日に77歳で死去した。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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