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“新選組の良心”といわれた男 “山南敬助”

新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第8回


土方歳三とともに副長をつとめた山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ)。彼は沖田総司など多くの隊士に慕われながら、脱走による切腹という不遇の死を遂げた。教養豊かで温厚な男に、いったい何があったのか?


 

武闘派ぞろいの新戦組の中で、剣術に加えて教養と人徳を兼ね備えていた山南敬介。名字の山南は「やまなみ」とも「さんなん」とも読まれ、歴史家により解釈が異なる。

 

 新選組にはきつい掟があった。「局中法度」(きょくちゅうはっと)と呼ばれている。新選組を統率するための規則である。特に「士道に背くまじ・局を脱するを許さず・勝手に金策を致すべからず・勝手に訴訟取扱うべからず・私の死闘を許さず」という5ヶ条の規則には、違反者は必ず切腹、という罰則が付いていた。この法度によって多くの隊士が切腹させられたり、粛清されたりした。山南敬助も、そうした犠牲者の1人であった。

 

 山南は、天保4年(1833)陸奥国仙台藩士の子として仙台で生まれた。剣術は、北辰一刀流千葉周作門下で免許皆伝という腕前であった。柔術にも優れ、さらには近藤勇の天然理心流も学んだ。新選組では試衛館の生え抜きといっても良い。

 

 性格は温順で、新選組屯所のあった壬生(みぶ)近辺でも、山南の人柄は「いい人」として評判だった。隊士たちにも山南は慕われていたという。

 

 しかし、山南自身は新選組では不逞浪士の取り締まりなどの場面で、かなり派手な立ち回りなどを見せている。決して「やさしい」「人の良い」だけの隊士ではなかった。初期の新選組では土方歳三と共に副長となっている。そして芹沢鴨(せりざわかも)一派粛清後には、総長という立場に昇進した。

 

 恋もあった。山南と相思相愛だったといわれるのが、明里(あけさと)という遊女上がりの女性だった。島原の廓(くるわ)にいて、明里に惚れた山南が落籍(ひか)せた。明里は、遊里には不釣り合いともいえる品の良さと教養とを兼ね備えていた女性で、山南の妻になってからも、しっかり武士の妻としての作法を忘れないような態度であったという。

 

 その山南が、突然新選組を脱した。いくつか理由はあるが、1つは山南自身が勤王に心を寄せていた、という思想・立場の違いであるという説だ。もう1つが、土方との確執が表面化したともいわれるし、後に新選組に加入した伊東甲子太郎 (いとうかしたろう)の存在が、山南の影を薄くさせた、ともいわれる。また、京都・西本願寺の集会所を、新選組の本営として借用するという近藤らの意向に反対しての脱走ともいう。

 

 いずれにしても山南は東に向かって逃げた。だが、大津に着いたところで追っ手の沖田総司に捕捉される。沖田は、試衛館のころから兄弟のように親しかった仲であった。連れ戻された山南は「局中法度」に従って、切腹と決まった。元治2年(1865)2月23日、山南は切腹することになり、介錯(かいしゃく)は沖田となった。永倉新八(ながくらしんぱち)などは、山南を逃がそうとしたほどであった。

 

 山南は沖田や永倉の好意で、妻・明里との最後の別れを終えて、逍遙(しょうよう)と死に付いた。32歳の人生であった。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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