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生き延びて中国に渡り馬賊の頭目になった男 “原田左之助”

新選組隊士列伝 『誠』に殉じた男たち 第10回


新選組結成時からの生え抜きで、常に第一線で活躍した原田左之助(はらださのすけ)。剣客特有の暗さや政治的な動きとは無縁の直情径行な男の生涯に迫る。


剣術に加え槍術を得意としていたと伝わる原田左之助。事実無根だが、坂本龍馬暗殺の犯人として疑われたこともあった。甲州勝沼の戦いのあと、永倉新八ともに新選組を離脱する。イラスト/宇野市之丞

 新選組には、奇妙な体験や人生を歩いた隊士が数人いる。原田左之助もそうした1人であろう。

 

 原田は、伊予松山藩の江戸屋敷で足軽の長男として生まれた。天保11年(1840)5月のことである。子どもの頃から頭が良く、読み書きもできたことから、江戸屋敷で足軽・中間として勤めるようになると、先輩などから苛められた。ある時、上司ともいえる武士と口論になり「腹を切る作法も知らない卑しい奴」と罵られた原田は、カッとなってその場で刀を抜くと自らの腹を右から左に切り裂いた。大騒ぎになったが、幸いに傷は浅く、命を取り止めた。この傷は、原田にとって自慢の種になったが、新選組に入隊後は「丸に一ツ引き」を自分の紋にするほどであった。

 

 この切腹騒ぎが元で脱藩した原田は、武者修行と称した旅に出て後、近藤勇の試衛館に転がり込んだ。原田は近藤よりも6歳年下であり。近藤を兄のように慕った。試衛館を挙げて浪士隊に入り、京都を目指した後、新選組として出発した近藤らに加わっていた原田は、新選組の戦いの中心で活躍した。

 

 芹沢鴨(せりざわかも)一派の粛清や池田屋事件、禁門の変、油小路での伊東甲子太郎(いとうかしたろう)暗殺など、主要な事件、戦いの現場に必ず10番組隊長の原田がいて、激しく戦っている。

 

 元治2年(1865)、26歳になっていた原田は、京都で町娘と知り合い正式に結婚した。菅原まさ、という女性である。新選組屯所の近くに居を構えた原田とまさに、長男が生まれる。「茂」と名付けて可愛がったが、大政奉還などによって新選組の立場が変わってきた。原田は、妻・まさに軍用金として分配された200両をすべて手渡し、「茂を立派な武士に育て上げてくれ」と言い残して別れた。その後、鳥羽・伏見の戦い、新選組の江戸帰還などもあって、原田と妻・まさは再会することはなかった。

 

 原田は永倉新八らと図って、近藤との確執・不信感を顕わにしたが、結局近藤の「甲陽鎮撫隊」による勝沼の戦い、さらには近藤と袂を分かった後の「靖兵隊」に加わったが、会津に向かう途中で原田は「所用あり」として江戸に戻った。その後、彰義隊に参戦して戦死したと伝えられる。とすれば、原田は28歳の生涯だったことになる。原田の最期を妻・まさに伝えたのは、原田の同僚・岸島芳太郎であった。その後、まさは、茂を連れて再婚し、昭和5年(1930)に83歳で亡くなった。

 

 ところが、原田の死には異説がある。運良く生き延びた原田は、中国大陸・満洲に渡り、そこで馬賊(馬に乗って襲撃・掠奪する群盗)の頭になったというのだ。

 

 後日談はまだある。明治40年(1907)頃、松山に戻った原田は弟や甥たちに会って、満洲でのことなどを語ったという。日清・日露戦争では後方から日本軍を支援して戦った、とも語った。そして原田はまたすぐに満洲に戻っていったと伝えられる。しかしながら、その真偽のほどは不明である。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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