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新選組の良識派とうたわれ、幹部にもなった文武両道の「文学師範」尾形俊太郎とは⁉

新選組隊士の群像【第6回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第6回は武闘派隊士の中で異彩をはなった文武両道の尾形俊太郎(おがたしゅんたろう)。


文久3年(1863)、急進的な長州藩と佐幕派の諸藩(会津藩・薩摩藩など)が対立。一触即発の危機の中、新選組は京都御所の警備を命じられた。新選組にとっての実質的な初陣だが、結局戦闘はなかった。写真は新選組が警備をした蛤御門(京都市上京区)。

 尾形俊太郎(1839~1913)は、肥後国熊本出身。新選組への入隊は比較的早く、まだ「壬生浪(みぶろう)」といわれた時代であった。尾形が入隊して2カ月後には「八月十八日の政変(結果として、長州藩と尊王攘夷派の公家7人を京都から追放した戦い)」があり、壬生浪士隊は会津藩主・京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)から会津藩の1隊として京都御所・蛤御門(はまぐりごもん/禁門)の警固を依頼された。

 

 この政変で、壬生浪士隊は新調したばかりの「だんだら羽織」の隊服を身に着けて行軍したとされる。この警固での働きを朝廷から認められて「新選組」という名前を拝領した。

 

 尾形は、そうした直前の入隊であった。尾形もこの警固には隊士の1人として参加していた。尾形の剣術については残された資料はなく「不明」とされているが、諸士調役兼監察(しょししらべやくけんかんさつ)という役職に就いているところから、剣術が苦手ということはなかった筈である。

 

 しかし尾形は、武術よりは学問に秀でたタイプでもあった。後には「副長助勤」という幹部にも登用されるが、特に近藤には信頼されていた。武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)や毛内有之助(もうないありのすけ/監物)とともに、新選組の「文学教授方(師範)」になっている。武術が得意な隊士は多いが、文学とか学門などに造詣の深い隊士は少なかったから、その点でも近藤には重宝がられたようである。文学師範は、隊士の教育係といった役割であった。

 

 学問の素養は、他藩や他の組織との外交にも役立った。その外交手腕を見込んだ近藤は、視察のために長州や広島を訪れた際には、永倉新八(ながくらしんぱち)・藤堂平助(とうどうへいすけ)・武田観柳祭などとともに尾形を同行させている。

 

 尾形の文武両道を裏付けるのは、慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに、戦法の1人として隊を率いて参戦していることからも納得できる。江戸に戻った新選組がその後、勝沼戦争(甲府城乗っ取り作戦)から会津戦争、箱舘・五稜郭の戦いを行う中で、尾形の消息は会津戦争まで記録に残っている(この時点まで、尾形は土方歳三らと行動を共にしていたはずである)。ただ、いくつかの消息めいたものはある。会津・若松城に転戦した際に戦死した、あるいは新政府軍の侵攻に遭って降伏した仙台藩で、一緒に降伏した、など諸説がある。また戦病死などの記述はない。

 

 さて、生き残ったはずの尾形であるが、その後の活動についても、不明である。ただし諸説はある。故郷・熊本に戻って地元の警察で剣術師範をやった、とか東京で名前を変えて警視庁に入り、消防署長として殉職した、という話まで様々に伝わる。それでいて、大正2年6月13日という死亡年月日まで伝わる不思議さも持つ人物である。死亡日時を信じれば、尾形は74歳まで生きたことになる。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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