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「守銭奴(しゅせんど)」と呼ばれても妻子に送金した文武両道の新選組隊士・吉村貫一郎とは⁉

新選組隊士の群像【第4回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第4回は南部藩脱藩の新選組隊士で、小説、映画の主人公にもなった吉村貫一郎(よしむらかんいちろう)。


上洛した近藤勇ら新選組隊士が最初に拠点とした八木邸(京都市中京区壬生)。池田屋事件の後に入隊した吉村貫一郎は、隊士が急増したため新たな屯所となった西本願寺からの隊士だ。

 吉村貫一郎(1840~1868)は、浅田次郎著『壬生義士伝(みぶぎしでん)』で脚光を浴びた隊士だが、それまでは、まったく知られることはなかった。生国は陸奥国(むつのくに)。南部。盛岡藩士であったが、慶応元年(1865)4月、脱藩して新選組に入隊した。入隊の動機は不明である。一説によれば、吉村貫一郎は変名で本名は嘉村権太郎という。南部藩士の二男として誕生し、藩内で剣術の腕が立ったために、江戸・玄武館(げんぶかん)に遊学して北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を学んだ。多分、この時期に尊王攘夷の流行に触れて京都に出ることを決意したと思われる。

 

 ちょうど土方歳三らが、江戸で「新選組隊士募集」を行っていた時である。恐らくこの時点で、南部藩脱藩と共に「吉村貫一郎」と名を変えたのではないか。北辰一刀流の触れ込みは新選組では重く扱われ、さらに書物や学問にも秀でていた吉村は、入隊半年後には撃剣指師範と諸士調役兼監察(しょししらべやくけんかんさつ)という役職を与えられた。いわば文武両道の人物でもあった。

 

 慶応2年2月、小笠原壱岐守(おがさわらいきのかみ)、大目付・永井尚志(ながいなおゆき/なおむね)などが長州征伐関連で広島に出張した際に、吉村と山崎蒸(やまざきすすむ)は広島で敵情視察を行っている。

 

 吉村の隊内評判の1つは「守銭奴(しゅせんど)」。金に汚いという意味ではなく、金を使うことをせずに貯めて、それを南部・盛岡に暮らす妻子に送り続けたのであった。こうした行動が新選組では他の隊士の目に「せこい男」と映ったようである。しかし、剣を振るってそれに成功すれば成功報酬も出る新選組は、吉村にとってはかなり貴重な収入源であったと思われる。お金のために新選組という「人斬り集団」で働いた吉村の、それも1つの筋の通し方であった。

 

 吉村は、新選組を脱退して「禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ/高台寺党)」となった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)一派13人の粛清(慶応3年11月18日)にも参加している。ここでは思う存分に北辰一刀流の腕前を振るったはずである。

 

 慶応3年(1867)6月に、新選組は幕府の召し抱え集団となった。吉村も、この時に御見廻組並・知行30俵2人扶持になった。脱藩しながらも、幕府直参になったのだ。しかし、慶応4年の鳥羽・伏見の戦いに敗れると、土方・近藤らは大坂から「富士山丸」で江戸に戻ったが、吉村は逃げ遅れてしまった。そこで、大坂・綱島の南部藩仮屋敷に帰藩を願い出るが、逆に脱藩などの身勝手な振る舞いを責め立てられ、無念のうちに自刃(じじん)した。自刃した床の間には、血染めの短刀と、2分金20枚(10両)、妻子への遺書が空しく置かれてあったという。28歳という若さの死であった。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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