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「油小路の変」で惨殺された新選組最強の剣士・服部武雄

新選組隊士の群像【第5回】


「新選組」は、池田屋事件、禁門の変など幕末の京都で、戦い続けその間に、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)など多くのスター剣士を誕生させたが、名もなく死んでいった隊士や、活躍したもののあまり知られていない隊士も数多い。そうした「知られざる新選組隊士」の前歴や入隊の動機、入隊後の活躍、関わった事件や近藤・土方らとの関係、その最期まで、スポットを当ててみた。第5回は剣の腕は沖田総司(おきたそうし)、斎藤一(さいとうはじめ)と遜色がないといわれた服部武雄(はっとりたけお)。


写真は高台寺月真院にある御陵衛士屯所跡の碑(京都市東山区)。暗殺された伊東甲子太郎の遺骸を引き取りに、服部や藤堂高虎ら伊東の腹心・部下たちは、新選組が待ち構える油小路に向かう。そこで壮絶な斬り合いとなった。

 服部武雄(1832~1867)は、播州赤穂藩(ばんしゅうあこうはん)の元藩士。かなりの大男で、流派は不明ながら武術にも優れていたという。新選組は武術の達人が数多いが、それは武闘集団ゆえでもあった。新規の隊士採用に当たっても、先ず武術の腕前が試された。

 

 服部は、文久3年(1863)正月に江戸で篠原泰之進(しのはらたいのしん)、加納道之助(かのうみちのすけ)ら11人の同士で「尊王攘夷」を誓い合った。その翌年の元治元年10月には、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)とともに新選組に加入した。慶応2年(1866)9月、土佐藩士による「三条高札(さんじょうこうさつ)事件」にも参戦し、その活躍ぶりに対してかなりの額の賞金を受けている。服部の役職は「諸士調役兼監察(しょししらべやくけんかんさつ)」である。

 

 翌年の慶応3年3月、伊東甲子太郎ら13人が、新選組を脱会し「禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ)」として尊王攘夷の旗を掲げた。本拠としたのが京都東山・高台寺の月真院であったことから「高台寺党」とも呼ばれた。伊東らは、新選組別働隊を名乗りつつ、新選組とは全く反対の行動(尊王攘夷)を起こすことにしていた。この行動に同調した服部は、新選組を脱退した13人の1人であった。

 

 これに激怒した近藤・土方は、11月18日、伊東を招いて酒食でもてなし油断させ、その帰りを襲った。油小路(あぶらのこうじ)の暗殺事件である。伊東の遺体はその場に晒(さら)されたままであった。高台寺党の面々は、その遺骸を納めに向かう。その際に、新選組の戦い方を熟知していた服部は「彼らは集団で来る。相手の攻撃を避けるためにも防具を付けていくべきだ」と待ち伏せを予想して主張したが、結局服部のみが鎖帷子(くさり・かたびら)を着て、7人の仲間と共に待ち伏せの場所に赴いた。

 

 待ち伏せた新選組は約20人。乱闘になった。藤堂平助(とうどうへいすけ)、毛内郁之助(もうないありのすけ)は勇猛果敢に戦って討ち死に。特に毛内は、原形を留めないほどに切り刻まれたという。残る鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)・篠原泰之心・富山弥兵衛(とみやまやへえ)・加納道之助は傷を負いながらも逃げ延びたが、服部は死後まで獅子奮迅の働きをした。得意の大太刀(おおたち/約102センチ)で立ち向かい、新選組の隊士の多くに手傷を負わせた。自身も10数カ所を負傷しながら「鬼神の如く」とたとえられるほどの奮戦であったが、最期は原田左之助(はらださのすけ)の槍で絶命した。自己の信念に従って生きた服部武雄。享年35の生涯であった。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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