【土方歳三の子どものころ】やんちゃで乱暴で、女グセも悪かった子どもは“新選組副長”へと成長した
偉人の子どものころ物語
どんなに強い剣豪でも子どもころはあった。ここでは「鬼の副長」と呼ばれた新選組・土方歳三の子どもころを紹介する。

土方歳三(国立国会図書館蔵)
■近づくと危険な「バラガキ」
激動の幕末において、京都の治安を守るために結成された剣の達人集団――。
それが「新選組(しんせんぐみ)」です。幕府に背く長州藩(ちょうしゅうはん)らの浪士たちを過激に取り締まったことで、大きな存在感を示しました。
土方歳三は新選組の副長として、組織の統制や運営などを取り仕切りました。新選組には厳守すべきルールがあり、やぶった者は容赦なく処刑されてしまいます。
そんな厳正な規律を厳守して、率先して処罰した歳三。「鬼の副長」と恐れられましたが、少年のころは自由気ままな性格でした。
歳三は1835(天保6)年、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)にある農家の家に生まれました。父は歳三が生まれる前に亡くなり、母は6歳の時に亡くなったため、次男の妻に育てられることになります。
農家に生まれたにもかかわらず、武人に憧れた歳三。風呂上りには、大黒柱に相撲の張り手をして、体を鍛えていたとか。
そのやんちゃぶりから、ついたあだ名は「バラガキ」。まるでイバラのように、触れると怪我をしてしまう。歳三はそんな粗暴な子どもだったようです。
■腹を立てて30キロ以上を歩く
10人兄弟の末っ子として生まれた歳三は11才になると、江戸上野の呉服店・伊藤松坂屋(いとうまつざかや)へと預けられ、店の手伝いをすることとなります。当時、長男以外は自力で収入を得る方法を探さなければなりませんでした。

江戸・上野にあった松坂屋。(東京都立中央図書館蔵)
ところが、些細なことで番頭から頭をぽかりと殴られてしまいます。そのことに腹を立てた歳三は、そのまま家に帰ってしまいました。実に9里、つまり約36キロもの道のりを歩いて帰ったとか。歳三の負けん気の強さがよくわかる逸話です。
一流の呉服店だっただけに、家族は戻るように説得しましたが、歳三は応じることなく、姉のぶの嫁ぎ先である、佐藤彦五郎(さとうひこごろう)家に出入りしては、雑用を引き受けたそうです。
■女性問題を起こしてクビに
17才のときに、再び奉公に出ることになります。大伝馬町の呉服屋で働きましたが、やはり長続きしませんでした。今度はなんと恋愛問題です。年上の娘と恋人関係になったことで、トラブルとなり、追い出されることになります。
歳三については、幕末を生きた証言者によるポタージュ『戊辰物語』で、次のような記述が残されています。
「色の白い小さな男で、なかなかおしゃれであった」
新選組で活躍するようになると「あちこちでモテすぎて表現できないほどだ」と手紙で、自慢した歳三。そのモテ男ぶりは、青年の頃にすでに発揮されていました。
■薬を売りながら剣術の稽古に励んだ
どうも働きに出ても長続きしない歳三でしたが、日野に戻ると、天然理念流の門下生として、剣術の励むようになります。そこで出会ったのが、のちに新選組の局長となる近藤勇でした。
とはいえ、生活費を稼がなければなりません。歳三の農家では、打ち身や痛み、切り傷などに効く薬を作っていました。歳三は薬を売り歩きながら、剣術道場に立ち寄っては稽古をつけてもらう日々を送るようになります。
仕事では、重い薬箱を担いで、400件以上の客先を配達して回りました。剣の修行中だった歳三からすれば、足腰も鍛えられて一石二鳥だったことでしょう。
その頃、歳三は自宅の庭に矢竹を植えながら、こう誓ったそうです。
「立派な武人になるぞ」
武人への憧れを持っていた、歳三。新選組に入ることで、夢を叶えることができました。

歳三の菩提寺高幡山金剛寺には新選組隊士として姿が復元された銅像がたつ。
【今回の教訓】すべては夢のためと思えば、苦労はなし
【参考文献】
菊池明編著『土方歳三日記 上・下』(ちくま学芸文庫)
『増補新版 土方歳三』 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)
相川司『土方歳三 新選組を組織した男』 (中公文庫)
東京日日新聞社会部『戊辰物語』 (岩波文庫)