なぜ江戸で一番多い飲食店は「うどん屋」から「そば屋」へ変わったのか?
江戸っ子に愛されたファーストフード 第2回 「そば」
江戸時代のはじめは、うどん屋の方が多かった

そば屋の屋台は肩に担いで移動することが可能であった。客に声を掛けられたら屋台を置き、その場で調理したそばを提供したという。『職人盡繪詞』 国立国会図書館蔵
そば屋は寛文4年(1644)に初めての店ができ、以来あれよあれよという間に増殖し、一説によると文政年間(1818~1830)には3000軒になったといわれている。江戸は俗に八百八町(はっぴゃくやちょう)といわれているので1町に1軒はあったことになる。これ以外にも屋台で商うこともあったので、ちょっと小腹がすき何か腹に入れたという時などすぐに食べることができた。また、温かいメニューは冬場に体が温まるからと注文する人もいたという。
現在でも大きな駅の構内や駅前などにもあるので、朝や移動中など時間がない時に利用する人もいるだろう。近年になってラーメン屋に抜かれるまで、江戸時代からずっと日本でもっとも多い飲食店はそば屋であったという。
もっとも江戸時代のはじめは、うどん屋の方が多かった。そのうちそばの産地である信州(現在の長野県)の人々が農閑期に江戸へ出稼ぎに来るなどして、そばの需要が高まるにつれ、そば屋が増えたようだ。
さて、そばだが、江戸時代が始まるころまで今のように細長いものではなかった。そばの実を雑炊のようにしたり、餅のように焼いたり、粉を湯で練ってまとめたそばがきのようにしたりして食べていた。それが石臼を使った製粉技術があがり、粉にしたものをうどんをまねて細長く切った「そばきり」と呼ばれるものが作られるようになった。そばきりは、茹でるのではなく蒸す。そば粉100パーセントではまとまりにくいため切れやすく茹でるのが難しいからだ。もりそばやざるそばを注文するとせいろに盛りつけられて出てくることがあるのはせいろで蒸していたころの名残だという。それをはじめのころは味噌に水を加えて煮詰めた「たれみそ」につけて食べていた。
短い麺は食べるのが大変なのでつなぎと呼ばれる他のものを混ぜて切れないようにすることが試みられた。地域によっては、山いもや海藻などを入れたようだが、多くはうどんの材料である小麦粉を利用した。小麦粉を多く混ぜれば細長い麺は作りやすいが、その反面そば独特の香りが失われてしまう。いろいろと試した結果、そば8に対して小麦粉2がもっともよい配合となったのだろう。江戸時代にそばのことを「二八そば」といったが、「二八」というのは、この割合のことであるという説がある。
一方で、16文という値段からという人もいる。16は九九でいうと2×8=16だからだ。江戸の人はこういうダジャレのような言葉遊びが大好きだった。明和・安永年間(1764~1780)に16文へ値上げして以来、長い間ずっと値段据え置きで、江戸時代が終わろうとしていた慶応年間(1865~1868)になってから物価高騰に耐え切れず、1杯20文、すぐに24文になったという。
さて、1杯16文という値段だが、現在の値段に換算してみよう。1文を30円程度とすると、480円くらい。お祭りなどで見かける屋台の焼きそばやたこ焼きなどが500円くらいなので、屋台の食べ物としては、妥当な値段だろう。16文というのはほとんど具材が乗らない“かけ”や“もり”の値段。“あんかけ”が16文、貝柱が入った“あられ”が24文、江戸の名物浅草のりをトッピングした“花巻”が24文、玉子焼き、かまぼこ、くわい、シイタケが具の“しっぽく”が24文、一番高い“てんぷらそば”が32文だった。