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【坂本龍馬の子どものころ】パッとしない少年時代を過ごした「坂本龍馬」を変えた出会いとは⁉

偉人の子どものころ物語


日本史の教科書にのるような偉人にも、子どもだったころがもちろんありました。大人になってどんなにかつやくした人でも、子どものときから「すごい」人だったわけではありません。ここでは、そんな日本の歴史をつくったようなえらい人たちが、小さいころは、どんな子どもだったかを紹介していきます。今回は坂本龍馬です。


 

■「ハナたれ」は龍馬のギャク!

 

坂本龍馬(国立国会図書館蔵)

 

日本を今一度洗濯いたし申し候――。
(悪くなった日本をもう一度よくなるように洗い直したい)

 

 そんな名言とともに、坂本龍馬(さかもとりょうま)といえば、「幕末の世をかけまわった自由人」というイメージがあります。

 

 そのフットワークの軽さから「薩長同盟」の立役者となったり、また自由な発想から「船中八策」の発案者とも言われたりしていますが、実像がイマイチつかめない人物でもあります。

 

※薩長同盟(さっちょうどうめい)…当時、大きな力をもっていながらも、敵対していた長州藩(ちょうしゅうはん)と薩摩藩(さつまはん)が手を結んだ同盟。日本を変えるきっかけとなった同盟といわれる。
※船中八策(せんちゅうはっさく)…龍馬たちが考えた新しい日本の形を記した提案書。

 

 そんな龍馬の少年時代といえば「ハナたれで寝小便(ねしょうべん)たれだった」というのが有名ですよね。偉人の意外な幼少期として、よく取り上げられるエピソードですが、龍馬がふるさとの家族に書いた次の手紙がもとになっているのでは、とも言われています。

 

「こんな私ですのでもう『昔のハナたれが、何をえらそうに』なとどお笑いになるのはやめてください」

 

 龍馬は故郷の家族に、自分の活躍ぶりをアピールしながら、「もうハナたれ小僧なんていわないでくださいよ」と冗談めいて書いているわけですね。

 

 なので、実際には鼻はたれていなかったかもしれませんが、パッとしない幼少時代だったことには変わりはなさそうです。それだけに家族も龍馬の出世をさぞ喜んだことでしょう。

 

龍馬の姉・乙女に宛てた手紙
龍馬はよく家族に手紙を送っていた。この手紙では自分で歌った和歌を自慢している。龍馬の趣味のひとつが和歌を詠むことというのは意外である。(京都国立博物館/出典:Colbase)

 

■ありふれた血気盛んな若者だった

 

 そんな龍馬だっただけに、28才のときに脱藩を決意したのは、周囲を驚かせたに違いありありません。翌年には、姉・乙女(おとめ)への手紙のなかで、「日本を今一度洗濯いたし申し候」という名言を残しています。

 

 パッとしない少年が、日本の大改革を考えるほどスケールが大きくなったとは……と感心しそうになりますが、手紙の前後をみると「日本を洗濯」のニュアンスが思っていたのとは違うようです。幕府への不満を書きながら「幕府の悪い役人たちを撃ち殺して、日本を今一度洗濯したい」と言っているのです。また、龍馬は19才のときには「異国人の首を討ち取って土佐(とさ/現在の高知県)に帰国いたします」と物騒なことを父への手紙に書いています。

 

 のちにとっても仲が悪かった薩摩と長州と手を結ばせる柔軟性は、この頃にはまだ観られず、龍馬はどこでもいるような血気盛んな若者だったようです。

 

坂本龍馬の刀『刀 吉行作』
龍馬の剣術の腕は相当なものだったといわれている。 (京都国立博物館/出典:Colbase)

 

■脱藩後も兄に気をつかいまくり

 

 それでいて、実はこの脱藩は当初「期間限定」だったことはあまり知られていません。「私は40歳になるころまでには土佐の実家には帰らないようにするつもりです」と、家族への手紙に書いており、「権平兄さんにも許しをもらいました」と、年の離れた兄にずいぶんと気を遣っている様子がみてとれます。

 

 兄の権平は父から坂本家を受け継いでおり、次は龍馬に継がせたいと考えていたようです。それに逆らって脱藩した龍馬でしたが、海軍修行をするにあたっても「この頃は大分とご機嫌がよろしくなり、お許しが出ました」と兄の権平の顔色をうかがいながら、きちんと許可をとっていたことがわかります。

 

 龍馬が家庭のしがらみから自由になるまでには、少し時間が必要だったようです。

 

■龍馬を変えた出会いとは?

 

 そんなふうに、かつての龍馬は「スケールが大きい自由人」とはかけ離れていたわけですが、それにもかかわらず、なぜ激動の幕末で活躍できたのか。それは、師である勝海舟との出会いが大きかったといえるでしょう。

 

 龍馬は30歳のときに初めて長崎を訪れて、勝海舟(かつかいしゅう)と対面を果たします。それまで外国を打ち払うことしか考えていなかった龍馬。勝の「外国との交易によって国の軍事力をつける」という考えに衝撃を受けると、弟子入りを志願しています。

 

「私の視野があまり狭かったことが恥ずかしい。先生の門下生にしてください」

 

 若い頃の龍馬は未熟ではあったものの、国のことを思う気持ちと、行動力は抜群でした。勝との出会いによって、龍馬は「新しい日本を作るために何をやるべきか」に目を向けるようになったのです。

 

【今回の教訓】自分の価値観を揺さぶる人との出会いを大切に!

 

【参考文献】
岩崎英重編『坂本竜馬関係文書 第一』(日本史籍協会)
宮川禎一『全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙』(教育評論社)
坂崎紫瀾『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』(岩波文庫)
山村竜也「愚童説話11 「鼻たれ」だったのか」『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社
松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書)

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真山知幸まやまともゆき

偉人の人生から日々を楽しむヒントを探る、偉人研究家。業界誌編集長から40歳で独立した4児の父。20万部突破の『ざんねんな偉人伝』シリーズ、『逃げまくった文豪たち』など著作50冊以上。「東洋経済オンラインアワード2021」でニューウェーブ賞を受賞。近刊に『偉人メシ伝』『文豪が愛した文豪』など。

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