ルンガ沖夜戦で大勝利!だが輸送作戦中止を理由に叱責された「田中頼三」司令官
世界を驚愕させた日本海軍の至宝・駆逐艦の戦い【第2回】
「指揮官先頭」というのが、日本陸海軍のモットーであった。とにかく積極的な戦いを見せることが、時には勝敗よりも重要になる。海戦で大勝利を収めながら、陸上勤務に左遷された田中頼三(たなからいぞう)は、そんな伝統に裁かれてしまった提督なのである。

田中頼三は生粋の駆逐艦乗りであった。大正2年(1913)12月に海軍兵学校41期を卒業。頑固で自分の意見をはっきり主張する性格が、上層部から煙たがられたのが左遷の理由、とも言われている。最終階級は海軍中将。
味方ではなく敵側から高く評価される軍人は、日本に限ると珍しくない。とくに第2次世界大戦で死闘を演じたアメリカ軍から称賛された指揮官が、陸海軍問わずに存在している。開戦時、第2水雷戦隊司令官であった田中頼三少将も、アメリカ軍から高く評価された軍人のひとりである。
田中は明治25年(1892)、山口県山口市の本間家の三男として生まれた。旧制山口中学を卒業後、田中家の養子となり、海軍兵学校へ進学。卒業後は生粋の水雷屋(すいらいや)として、軍歴の大半を駆逐艦乗りとして送っている。
開戦後はダバオ、ホロ、メナド、アンボン、チモール、バリ、スラバヤ、ミッドウェー、ガダルカナルと転戦する。田中司令官がまず着目されたのが、昭和17年(1942)2月27日から3月1日にかけインドネシア沖で行われた、スラバヤ沖海戦の時であった。
これはイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアからなる連合軍が、日本軍のジャワ島攻略部隊を待ち伏せしたために起こった海戦である。2月27日11時50分、日本軍偵察機がスラバヤ沖の連合軍艦隊を発見。輸送船団への攻撃を阻止すべく第2水雷戦隊、第4水雷戦隊、第5戦隊が連合軍艦隊へ針路を定めた。そして17時頃、スラバヤ北西約48kmの海域で、両軍が会敵した。
この海戦は日本軍の完全勝利であった。日本側の被害は駆逐艦「朝雲(あさぐも)」と輸送船1隻が大破したのみ。連合軍側はオランダ海軍の軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」、駆逐艦「ヴィテ・デ・ヴィット」「コルテノール」が沈没。アメリカ海軍は駆逐艦「ホープ」が沈没、重巡洋艦「ヒューストン」が小破、イギリス海軍は重巡洋艦「エクセター」、駆逐艦「エレクトラ」「エンカウンター」「ジュピター」が沈没した。
この戦いにおいて田中司令官は、魚雷を使い遠距離からの攻撃に終始した。おかげで自軍の損害を減らすことに貢献した。ところがこの戦い方が、上層部からは「消極的」だったということで問題視されたのだ。

昭和17年6月30日に竣工。8月31日にトラック泊地に進出以来、ガダルカナル島を巡る戦いに従事した駆逐艦「長波(ながなみ)」。ルンガ沖海戦時、田中司令官が座乗した。ガダルカナル島撤退作戦、キスカ島撤退作戦にも参加する。
続いて田中が着目されたのが、ガダルカナル島を巡る攻防戦において。島はアメリカ軍の上陸を許してしまうと、日本軍が建設した飛行場はすぐに抑えられてしまい、制空権はアメリカ軍のものとなった。そのため、船足が遅い輸送船は島に到達できなかった。
そんな状況下、田中が指揮する水雷戦隊にも、補給物資輸送任務が与えられる。この駆逐艦による輸送は、敵に見つからないように、夜間に一列となって航行した。この様子をアメリカ軍は「東京急行」と呼び、日本軍側は「鼠輸送(ねずみゆそう)」と自嘲(じちょう)していた。それでも日本には、これ以外に物資を輸送する術がなかったのである。それはアメリカ軍も心得ていて、艦隊による待ち伏せを行なっている。
昭和17年11月30日20時、田中少将率いる第2水雷戦隊は、ドラム缶に防水包装された食料や弾薬を詰めてロープで繋ぎ、それを海上に投棄。陸上部隊が大発で回収、またはロープを手繰り寄せるという、画期的な輸送を行なっていた。だが荷下ろしの最中、待ち伏せしていたカールトン・ライト少将率いるアメリカ第67任務部隊が忍び寄ってきた。その兵力は重巡洋艦4、軽巡洋艦1、駆逐艦6。一方の第2水雷戦隊は駆逐艦が8隻であった。
レーダーで日本艦隊を捉えたアメリカ軍は、単艦で警戒に当たっていた「高波(たかなみ)」に集中砲火を浴びせ、炎上させた。その知らせを受けた田中は、即座に荷下ろし作業を中止。アメリカ艦隊に向かって進路をとる。やがて会敵すると、田中は砲撃を禁じた。攻撃は魚雷のみ、と決断したのである。夜戦で大砲を使うと、火薬が放つ光が敵から見れば格好の標的になってしまうと考えたからだ。
ところがアメリカ軍は盛んに砲撃を加えてきた。ほとんどが高波に対してであったが、高波が放った反撃の主砲が2隻の敵駆逐艦に命中、炎上させた。その炎がアメリカ艦隊を浮かび上がらせた。高波は50発以上の砲弾を浴びつつも、反撃のきっかけを作ったのだ。
これを見た第2水雷戦隊の他の駆逐艦は、砲撃が発する炎に加え、高波が作った敵艦の炎を目印に、次々に魚雷を命中させた。終わってみると重巡「ノーザンプトン」は沈没、「ミネアポリス」「ペンサコラ」「ニューオリンズ」は大破。巡洋艦で無事であったのは、軽巡「ホノルル」のみであった。この様子を見て、アメリカ側の駆逐艦は戦場を離脱。日本側の被害は、高波の沈没のみであった。
この「ルンガ沖夜戦」は、日本側の大勝利であったが、海軍上層部は田中を叱責している。「本来の任務、輸送作戦を放棄した」というのがその理由だ。加えて先のスラバヤ沖海戦と同じく、魚雷による遠距離からの攻撃が「消極的」であったというのだ。
その後、田中は舞鶴海兵団長、さらに第13根拠地隊司令官として、ビルマの地で終戦を迎える。艦隊指揮官からは外されてしまったのだ。一方、アメリカ側からは「恐るべき田中」「太平洋戦争における名将の一人」という、高い評価を受けていたのである。

日本軍の放った2本の魚雷が命中し、第1砲塔直前から艦首部分にかけて完全に沈下してしまった重巡「ミネアポリス」。必死の操艦によりツラギの基地に帰投したが、この後、損傷箇所を修理するのに1年を要した。