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2度の沈没事故を起こし「3」にまつわる不思議な犠牲者を生んだ『伊号第33潜水艦』の数奇な運命

海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり


洋の東西を問わず、世の中には不吉な数字があると信じられている。日本では、自動車のナンバーに4(死)や9(苦)が入るのは好まれない。旧日本海軍の潜水艦にも、縁起が悪いと嫌われた数字があったのだ。


 

1953年に引き揚げられた伊33。9年間も海底にあったことで、表面の塗装などは剥げ落ちのっぺりしたように見える。最初に命名された伊41のままだったら、果たしてどのような運命となっていたであろうか!?

 ジンクスとでも言うのだろうか、それとも本当に呪(のろ)われた数字だったのか……。旧日本海軍の潜水艦乗りの間では、「3」が付く潜水艦は不吉だと忌(い)み嫌われた。

 

 大正13年(1924)、佐世保(させぼ)郊外で第43潜水艦が、巡洋艦龍田(たつた)の船底に衝突して沈没。乗員全員が死亡。昭和3年(1928)には、伊号第3潜水艦が舵(かじ)の故障で座礁。艦首と燃料タンク損傷で済むが、昭和12年(1937)には潤滑油タンクの爆発事故を起こす。この時は死者1名、負傷者17名を出してしまう。

 

 伊号第153潜水艦が改名前の伊号第53潜水艦だった昭和11年(1936)、大王崎(だいおうざき)の沖で僚艦の伊号第56潜水艦と接触事故を起こしている。僚艦との衝突事故は、伊号第63潜水艦も昭和14年(1939)に起こし、沈没した。

 

 これだけなら、単なる偶然。その後も多くの潜水艦が事故や戦争で沈没しているし、3が付く潜水艦でも、伊号第36潜水艦のように活躍した艦はあった。だが2度の沈没事故を起こした伊号第33潜水艦(以下・伊33)の例を紐解くと、あながち迷信と片付けられない思いが湧き上がってくる。

 

 昭和14年の第4次海軍軍備補充計画により計画され、三菱重工業神戸造船所で建造された伊33は、昭和15年(1940)2月21日に起工、翌昭和16年(1941)の3月25日に伊号第41潜水艦と命名される。その年の5月1日に進水、11月1日には、伊33に改名された。そして昭和17年(1942)6月10日に竣工。同時に一等潜水艦に分類され、呉鎮守府(くれちんじゅふ)籍となる。

 

有毒のメタンガスが充満していたことで、乗り込んだ技術者が犠牲となった魚雷発射管室。当時はガス発生の原因は解明されなかったが、今は艦内に残された遺体が温度上昇により腐敗し、有毒ガスが発生したと考えられている。

 

 昭和17年9月26日、ソロモン諸島海域から補給のためにトラック島に帰投した伊33は、珊瑚礁に衝突して艦首の第6発射管維持針装置を損傷してしまう。そこで応急修理を行うため、工作艦の浦上丸に横付け。水面下にある発射管を水面上に出そうとして、掌水雷長が将校に無断でメインタンクのキングストン弁(海水取入口)とベント弁を開いた。

 

 だがその時、後部兵員室にあった5つのハッチが開いていたのだ。予備浮力が極端に少ない潜水艦は、わずかな浸水にも耐えられず、水深33mの海底に着底。浦上丸から乗り組んでいた作業員1名が、前部発射管室から脱出したが、残っていた33名の乗組員と作業員が命を落とした。沈没した海の深さと、犠牲者の数があまりに不気味だ。ただこの日、乗員の半数は上陸していたため難を逃れている。

 

 昭和18年(1943)1月29日、引き揚げが完了した伊33は、内地で本格的な修理を行うため3月2日に曳航(えいこう)されて呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)に向かう。18日に無事呉に到着した伊33は、それから修理と改修が行われた。作業が完了したのは、昭和19年(1944)の6月1日であった。

 

 6月13日、伊33は訓練のために呉を出港、伊予灘に浮かぶ由利島の南方海域に向かい、そこで急速潜航の訓練を開始。ところが右舷ディーゼル機関吸気用弁が閉まらず、そこから機関室に浸水した。艦は見る見る沈降していくので、急いでメインバラストタンクを部分的にブローする。艦首が数秒間海面上に浮かび上がるも、すぐに沈んでしまう。

 

 結局、由利島付近の水深60mの海底に着底する。高圧空気の残量から、艦長の和田睦雄少佐は浮上を諦め、1人でも助けようと艦外脱出装置のハッチを開放。8人が脱出に成功する。だが漁船に救助されたのはわずか3名で、うち1名は救助後に死亡、残りの大半は行方不明となってしまった。結局、脱出後に溺死した者も含め、102名が亡くなった。

 

 生存者の報告から、伊33が沈んでいる場所は確認された。その潜水調査で、修理の際に使用した木片が頭部弁に挟まっていたため、弁が閉まらず浸水したことも判明。だが戦局の悪化により、浮揚・救助活動は打ち切られてしまう。そして8月10日に除籍された。

 

 終戦から8年が過ぎた昭和28年(1953)7月下旬、伊33はようやく引き揚げられることとなった。その艦内には多くの殉職者が、当時のままの姿で眠っていたほか、防水処置が施された状態の遺書が残されていた。

 

 ところが不幸はそれだけで終わらなかったのだ。艦は本格的な調査を行うため、瀬戸内海の因島にある日立造船(現ジャパンマリンユナイテッド)因島工場に収容される。そこで艦内に入った技術者が前部魚雷発射管室を開けたところ、内部に充満していた有毒ガスにより命を落とした。この時の犠牲者も3名で、やはり3が絡んでいたのである。

軍医少尉が残した遺書により、乗務員27人分の遺書は2つの水甕に入れ、テープでぐるぐる巻きにしたことが判明。軍医は防水処置を施すことで、遺書が確実に遺族の元へ届くことを願った。まさに適確な処置であった。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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