破天荒な行動・型破りな快男児 そして不死身と謳われた潜水艦長 板倉光馬少佐 武勇譚(4)
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
「敵機に帽子を振れ!」
不死身とあだ名され、海軍内で知られた存在であった板倉光馬(いたくらみつま)少佐。だが彼は単なる強運の持ち主だっただけではなく、卓越した戦略眼の持ち主であったのだ。

アリューシャン方面への輸送作戦に参加し、極寒の海で潜水母艦からの補給を受ける伊号潜水艦。艦橋や甲板には双眼鏡を構え警戒を行っている乗組員の姿が見える。この作戦には板倉が艦長となった伊2も参加している。
昭和18年(1943)、板倉大尉は南太平洋で作戦中の伊号第176潜水艦(以下・伊176)の艦長に就任したため、3月末にラバウルに到着。ところが作戦輸送でニューギニアのラエに向かった伊176は、港口で浮上した直後、ポートモレスビーから飛来した戦闘爆撃機に急襲され、潜航不能に陥ってしまう。そのため板倉は、4月15日付で伊号第2潜水艦(以下・伊2)の艦長に転任した。
その年の5月12日、アッツ島にアメリカ軍が来攻。北海の孤島に艦隊を送ることもできない北方部隊にとって、潜水艦部隊だけが即応できる唯一の戦力であった。そこで古賀峯一(こがみねいち)連合艦隊司令長官は、待機中の全潜水艦を投入することを決断する。だが29日にはアッツ島守備隊が玉砕。そこでキスカ島を守備していた六千余名の将兵を、撤収する作戦へと切り替わった。板倉艦長が指揮する伊2も参加し、キスカ島への輸送を2回、さらに撤収作戦では気象通報の任に就いている。
この時、隊内で水難事故が起こったことから、板倉は艦内の酒をすべて処分することを思いつく。だが廃棄するのは勿体ないので、乗員とともにすべて飲み干すことにした。酒宴の間、酒を飲まない者を甲板の見張に立たせ、落水防止に努めた。ところが板倉自身が甲板に出て「異常はないか?」と確認し、ついでに立ち小便をした際に事件が起こる。バランスを崩した板倉が、水温0度近くの海に転落し気を失ったのだ。見張員がすぐに救出し、蘇生措置を行なったため命拾いする。
この時、近くにいた潜水母艦の平安丸が、異変に気づき「イカニサレシヤ」という信号を送った。伊2側は艦長が転落したことを誤魔化すため「溺者救助訓練ヲ実施セリ。作業完了、異常ナシ」と返信している。この時のことを、板倉は生涯最大の恥としているが、極寒の海に転落しても死ななかったため、以後「不死身」と呼ばれるようになった。
昭和18年12月1日、半年に及んだ北方作戦を終え横須賀に帰投した板倉を待っていたのは、「伊号41潜水艦長に補す」という辞令であった。ついでに6月1日付で少佐に昇進していたことも伝えられた。北方作戦の疲れを癒す暇もなく、年の瀬が迫る29日に内地を出撃。昭和19年(1944)1月4日、トラック島に到着するとすぐ大砲や偵察用飛行機、さらに予備の魚雷も降ろし、代わりに糧食や弾薬を満載するとラバウルへの移動を命ぜられた。
1月16日、見渡す限り青一色の大海原を航行していると、俄(にわ)かに雨雲が広がり南方特有のスコールに見舞われた。しばらくすると前方が明るくなり、突然灼熱の太陽が戻ってきた。その瞬間、見張員が絶叫する。
「左三十度、敵機!」
双眼鏡を覗くまでもなく、B24爆撃機が超低空でこちらに向かって来るのが、肉眼ではっきり見えた。敵機はスコール内に潜んでいた時から、レーダーでこちらを捉えていて、すでに爆撃準備が整っていると思われる。潜航すれば必ず撃沈されるだろう。その時、板倉は腹を括り、意表をつく命令を下した。
「敵機に帽子を振れ!」
板倉自身、艦橋から身を乗り出すようにして懸命に帽子を振った。これでパイロットが惑わされなければ万事休す。爆弾の餌食となるだけだ。全身から汗が吹き出してきた瞬間、敵機が大きくバンクしながら目前で反航姿勢に変わった。その時、風防ドームが大きく開き、真っ赤に日焼けしたパイロットが白い歯を見せ、手を振っているのが見えた。
「両舷停止! 潜航急げ! ベント開け!」
と、板倉は艦内に飛び込みながら絶叫。伊41はすぐさま急速潜航に移り、深度計が45mを過ぎた時、4発の爆弾が海面で炸裂する音が艦内に響き渡った。

平安丸はもともと日本郵船の貨客船であった。昭和16年(1941)10月3日に海軍に徴用され、特設潜水母艦となった。補給魚雷や弾薬を搭載し、太平洋の根拠地を行き来していた。写真は幌筵沖に停泊中の平安丸(左)と伊171。
1月19日にラバウルへ到着すると、厳しい輸送任務が待ち構えていた。まずはニューブリテン島のスルミへの輸送。次いでの輸送任務は、ガダルカナル島を奪取された後、ソロモン群島防衛の最前線となったブーゲンビル島のブインへの輸送である。
「板倉艦長、ブインでは鮫島(さめしま)中将がお待ちかねだよ。しっかり頼む」
命令を発した南東方面艦隊司令長官の草加任一(くさかじんいち)中将は、板倉が司令部を後にしようとした際、思わぬ言葉をかけてきた。ブインを根拠地とする第八艦隊司令部の長官は、鮫島具重(ともしげ)中将だという。そう、板倉が新任少尉だった時、帰艦時間の一件で殴ってしまった巡洋艦最上の艦長だった人だ。何という巡り合わせなのか。板倉は万感の思いが込み上げ、目頭が熱くなった。
当時ブインへの輸送は、機雷原と敵機のレーダーに阻まれ、まだ1隻の潜水艦も成功していなかった。そこで板倉はレーダー探知に対抗する策を思いついた。潜水艦は通常日中は潜航し、夜間に浮上航行してバッテリーを充電する。だがレーダーの登場以来、夜間でも簡単に見つかってしまう。
板倉が講じた手段はその逆で、日中に浮上航行し夜間は潜航する、というもの。昼間ならば敵機に発見されても、こちらも遠距離で敵を認識できるので対処できる。それにアメリカ側もまさか昼間に浮上航行する、間抜けな敵潜水艦がいるとは考えないであろう。この策が見事に功を奏し、輸送潜水艦として初めてブイン入港することが叶った。板倉は連絡参謀の岡本中佐に、鮫島中将への手土産としてウイスキーと煙草をことづけた。
ラバウルに帰投すると、第八艦隊司令長官から伊41を名指しで再度の輸送依頼が届いていた。こうして板倉艦長指揮下の伊41は、再び超難関のブイン輸送業務に赴いた。今度は板倉が岡本中佐から、鮫島長官からの返礼品と手紙を渡された。それは椰子(やし)でできた、長官手作りの7本のパイプであった。
伊41によるブインへの強行輸送は3回行っている。戦後、復員していた鮫島元司令官が余命いくばくもないことを知った板倉は見舞いに出向いた。板倉の来訪を知ると、脳溢血(のういっけつ)で声も出せなくなっていた鮫島元長官が、病室の一画を指さす。そこには板倉がブインに届けたウイスキーの瓶に、白い山茶花(さざんか)が一輪挿して置かれていたのである。

伊41は伊40型潜水艦の2番艦として、昭和18年(1943)9月18日に竣工。板倉少佐は2代目の艦長として赴任。不死身と言われた板倉は、ほとんどの潜水艦が果たせなかったスルミ1回、ブイン3回の輸送任務を成功させた。