×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

破天荒な行動・型破りな快男児 そして不死身と謳われた潜水艦長 板倉光馬少佐 武勇譚(2)

海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり


旧日本海軍の潜水艦乗りには、型破りな人物が多かった。酒により何枚もの始末書を認めた板倉光馬(いたくらみつま)少佐もそのひとりだ。今回は潜水艦乗りになる決意を抱かせた人物との、出会いを紐解いてみたい。


明治34年(1901)3月に、イギリスのアームストロング社にて竣工。当時は最新鋭の装甲巡洋艦で、日本海軍が領収し磐手と命名された。日露戦争で活躍し、大正5年(1916)からは練習艦として遠洋航海に参加。昭和17年(1942)に1等巡洋艦に復帰している。

「本日行われた防火訓練の際、本艦は放水できなかった。その原因を乗艦して日の浅い板倉候補生が、二重底にまで潜って突き止めた。もって範とすべきである」

 

 手あきの総員を後甲板に集め、練習艦磐手の副長・草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)中佐が訓示した。これは昭和9年(1934)、板倉光馬が海軍少尉候補生となり練習艦に乗り込み、遠洋航海に出ていた際に行われたものだ。前回触れた通り、板倉候補生は練習航海中、じつに8枚もの始末書を提出している。それが草鹿副長から名指しで褒められたのは、航海中に行われた防火訓練での出来事と、その後の板倉候補生の努力によるものであった。

 

 遠洋航海に参加した練習艦は、板倉が乗り込んだ磐手(いわて)と浅間(あさま)であった。ともに日本海海戦に参加した巡洋艦で、多少の老朽化は否めない。防火訓練が始まり、いざ放水というとき、磐手は消火栓を開いても海水が出なかった。一方、浅間からは海水が数条の放物線を描いている。普段は大きな顔をしている甲板士官も、右往左往するだけで原因は分からずじまいで、訓練は中止された。

 

 板倉は調査が打ち切られた後も一人で丹念に海水管系統を辿り、二重底にまで潜り込んで原因を探った。そこには三番炭庫が空だったため入れたが、有毒ガスが充満している危険があったため、見過ごされていたのであろう。そこで海水管の弁を開閉するピンが腐食していることを突き止めたのだ。

 

 その後は戦闘機乗りを志し、霞ヶ浦の航空隊で訓練を受ける。だが卒業間近で墜落事故寸前という失敗をやらかしたため、飛行機乗りの夢は儚く消え失せてしまう。そして昭和10年(1935)4月1日に少尉に任官し、戦艦扶桑(ふそう)への乗組を命じられている。

 

 当時、戦艦の乗組員は羨望(せんぼう)の眼差しを向けられた。戦艦は海上戦力の主役であり、海軍内には大艦巨砲主義が大勢を占めていたからである。だが板倉少尉は当初から戦艦勤務には馴染めず、3カ月で扶桑から巡洋艦最上へ転属となった。そこで前回紹介した艦長の鮫島具重(さめじまともしげ)大佐を殴るという大事件を起こし、巡洋艦青葉(あおば)へ転属となる。

青葉は青葉型重巡洋艦の1番艦として大正13年(1924)に竣工。太平洋戦争では珊瑚海海戦、第一次ソロモン海戦、サボ島沖海戦、レイテ沖海戦等に参加している。最後は修理のため呉軍港に停泊中、防空砲台として対空戦闘に参加、右舷に傾斜し着底、終戦を迎える。

 この時の青葉艦長の平岡粂一(ひらおかくめいち)大佐は、もともとは潜水艦乗りであった。円熟した人格者で、鋭い先見の明を持ち合わせていた。つねづね「英米と比べれば、日本海軍は劣勢である。それを補うには飛行機と潜水艦を強化する必要がある。潜水艦の性能は優れているし、下士官兵も優秀だ。しかし士官の志望者が少ない」と、嘆いていた。

 

 板倉少尉が潜水艦乗りを志望するようになったのは、この平岡艦長に感化されてのことだ。そしてもう一人、小松輝久(こまつてるひさ)少将との出会いが決め手となる。

 

 昭和11年(1936)7月、後期の訓練が始まる直前、連合艦隊は佐世保に集結した。入港後、板倉少尉も上陸して水交社(海軍将校の親睦団体)に顔を出すと、級友が7、8人で飲んでいた。そこで「クラス会の相談をしていたのだが、貴様は遅れてきたから幹事をやれ」と、押しつけられてしまったのだ。

 

 予約なしだったので、料亭の部屋にはありつけたが、エス(芸者のこと)がいない。とにかくエスを手配しろと級友にせっつかれ、半ばヤケで奥の部屋へ突撃。エスを拝借できないかと襖を開けた途端、「何だ、貴様はっ!」と一喝される。見るとそこには第一水雷戦隊司令官に栄転した南雲忠一(なぐもちゅういち)少将が鎮座していた。以前、戦艦山城(やましろ)の艦長時代に見かけているので、顔を認識できたのである。すぐさま「青葉航海士、板倉少尉であります」と答えると、矢継ぎ早に質問された。

 

「貴様は何しに来た?」

 

「クラス会にエスがおりませんので、暫時拝借できればと参上いたしました」

 

「クラス会だと。何人いる?」

 

「9名であります」

 

「そうか。ところで俺は何だと思う?」

 

「一水戦の司令官とお見受けします」

 

「よく当てた。では隣は誰だと思う?」

 

 と、南雲司令官は同席していた他の士官へと目を向ける。板倉少尉は旗艦艦長だの先任参謀だのと適当に答えた。ところが彼らは連合艦隊参謀長の野村直邦(のむらなおくに)少将と、第一潜水戦隊司令官の小松輝久少将というお偉方であった。すっかり板倉少尉を気に入った南雲司令官は、「お前の同期生をここに呼んでこい」と上機嫌で命じた。

 

 結局、板倉らはこのお偉方らに同席させられ、一緒に酒を酌み交わすこととなった。板倉以外は、まるで借りてきた猫のように、大人しくなってしまったようだ。

 

 そこで知り合った小松司令官は、もとは皇族の北白川宮輝久王(きたしらかわのみやてるひさおう)。臣籍降下して軍務につき、進んで潜水艦に身を投じた。それは潜水艦に人なきを憂いてのことだと聞かされた。

 

 これに胸を熱くした板倉少尉は、その後の進路志望に「第一希望、潜水艦、第二希望、潜水艦……」と書くほど熱烈な潜水艦マニアとなったのである。

小松輝久は北白川宮能久親王の第4王子。皇族は無試験で陸軍士官学校や海軍兵学校に入れたが、一般の試験を受けて海軍兵学校に入学。明治43年(1910)に臣籍降下を請願し、小松姓を賜る。潜水学校長、第6艦隊(潜水艦のみで構成)司令長官などを歴任した。

KEYWORDS:

過去記事

野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

最新号案内

歴史人2023年7月号

縄文と弥生

最新研究でここまでわかった! 解き明かされていく古代の歴史