破天荒な行動・型破りな快男児 そして不死身と謳われた潜水艦長 板倉光馬少佐 武勇譚(1)
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
旧日本海軍の潜水艦乗りには、前回紹介した安久榮太郎(あんきゅうえいたろう)の他にも、なかなか型破りな人物がいた。候補生時代には酒癖の悪さから何枚もの始末書を認めた反面、乗り組んだ艦の綱紀粛正に並々ならぬ情熱を注いだ熱血漢・板倉光馬(いたくらみつま)少佐である。

板倉光馬は大正元年(1912)11月、小倉市で建築業を営んでいた板倉家の次男として誕生。名門小倉中学在籍中に海軍を志した。少尉候補生の時に、飛行機乗りを目指した時期もあったが、ある人物との出会い以来、潜水艦乗り一筋となっている。
「板倉少尉は、酒をやめられないか?」
「はっ、昨夜来禁酒を決意いたしましたが、恐らくは続かないと思います」
「そうか、では量を減らすことはどうか」
「恐らくやめるより難しいと思います」
これは板倉光馬が少尉に任官して間もない昭和10年(1935)、戦艦扶桑(ふそう)に続き航海士として乗り組んだ、軽巡洋艦最上(もがみ/後に改装され重巡洋艦となる)の艦長、鮫島具重(さめじまともしげ)大佐と交した問答である。
かねてから下士官兵の門限破りに関しては厳しく、士官にだけ寛大な海軍の風潮に嫌気を覚えていた板倉少尉は、帰艦時間を過ぎているにもかかわらず、悠然と港に姿を現した鮫島艦長の顔面に、パンチを繰り出してしまったのだ。これは酒に酔っていたからといって、許される過ちではない。
任官したての若い少尉は、この海軍始まって以来の不祥事を起こしたことで、軍法会議行きすら覚悟していた。ところが彼を自室に呼んだ“被害者”の艦長は怒りを表すこともなく、あくまで疑問点を追及するかのような穏やかな口調で、暴行に至った理由を少尉に問いただした。それが栄えある海軍のため、士官も帰艦時間を守ってほしかった故の行動と知ると、途端に表情を明るくした。
結果、板倉少尉は重巡青葉(じゅうじゅんあおば)への転属を言い渡されただけで、無罪放免となった。その後、全軍に「高級将校といえども帰艦時刻は厳守すべし」という旨の次官通達が布告される。鮫島大佐が次官の長谷川清(はせがわきよし)中将の元を訪ねて、自分を殴った一少尉のため助命を嘆願するとともに、綱紀粛正を求めたのである。二人の縁は、この後も特別な出来事を生み出す。

昭和10年(1935)7月就役の巡洋艦最上。第四艦隊に所属したが、同年9月の大規模海難事故(第四艦隊事件)で、第二砲塔が旋回不能になる。就役2カ月で大規模改修、さらに4年後にも手が加えられ重巡洋艦となった。
北九州の小倉出身の板倉は、少年時代には画家を志していた。ある日、関門海峡を通航している連合艦隊の威容(いよう)を目の当たりにし、全身を稲妻のような感動が駆け巡る。以来、名門の小倉中学ながら落第スレスレの成績であったにもかかわらず、超難関の海軍兵学校を目指す。猛勉強の末、見事海軍兵学校(61期)に合格したのである。
そして昭和9年(1934)、候補生時代に行われた練習艦隊による遠洋航海において、破天荒な本領が発揮される。皮切りがインド洋航行中の夜食事件だ。その夜はモンスーンの影響でうだるように暑かった。にもかかわらず、夜食に熱いうどんが出されたのだ。海軍はテーブルマナーが厳しかったが「構ってはいられない」と、上半身裸でうどんを食していると、指導官付に見つかってしまう。たまたま入口に一番近い席だった板倉候補生が、始末書の栄誉(?)を受けたのである。
フランスでは団体行動によるパリ見学が行われたが、他の候補生と2人で抜け出して、勝手にルーブル美術館やキャバレーのムーラン・ルージュを思う存分に愉(たの)しんだ。そしてホテルに帰ったところ、行方不明者が出たことで、恥を忍んで捜索願を出す、出さないで大騒ぎとなっていたのである。当然、これも大目玉と始末書を喰らうこととなった。
さらに地中海を航行中には、乗り組んでいた練習艦磐手(いわて)の艦橋直下のシェルター・デッキで、「ここならば灯台下暗し。バレることはない」と、マルセイユで手に入れたワインをしこたま飲んだうえ、泥酔して眠り込んでしまう。翌朝、水をぶっかけられ起こされると、目の前には鬼の形相で立つ教官の姿。
こうして板倉候補生は、遠洋航海中に8枚もの始末書を量産したのである。そして「始末書の書き方は板倉候補生に聞け」と言われるまでの、大物(!?)となったのだ。
とにかく型破りな候補生だった板倉光馬も、昭和10年(1935)4月1日に晴れて少尉に任官し戦艦扶桑に乗り込んだ。それから3カ月後、転属となった巡洋艦最上で、最初に触れた大事件を起こしてしまうのである。
それでも海軍士官として生き残れたのは、彼が「とんでもない事件を起こすが、とてつもない功績も残している」という人物であったからだ。次回はそんな板倉の功績と、潜水艦乗りを目指すことになった経緯について、紐解いてみることにしたい。

明治22年(1889)生まれの鮫島具重は、岩倉具視の三男・岩倉具経(ともつね)を父親に持つ言わばサラブレットだ。男爵でもあり、最終階級は海軍中将。陸軍の今村均大将と同様、海軍きっての人格者として知られていた。