開戦以来休むことなく続いた「伊号第175潜水艦」の八面六臂の活躍とその軌跡
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
大日本帝國海軍の潜水艦は、その多くが言わば「便利屋」のような扱いを受けていた。竣工時は伊号第75潜水艦(以下・伊75)という艦名が与えられ太平洋戦争に突入。昭和17年(1942)5月20日に伊号第175潜水艦(以下・伊175)に改称され、多くの武勲を挙げた艦(フネ)も例外ではなかった。

カサブランカ級航空母艦の2番艦として1943年8月7日に就役したリスカム・ベイ。中部太平洋方面でのアメリカ軍の大規模反攻「カルヴァニック作戦」に参加。太平洋戦争でアメリカ海軍が失った最初の護衛空母となる。
伊75(当時の名称)は、昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃時、オアフ島の南方で真珠湾から出てくる艦船の偵察任務に従事した。さらに15日にはマウイ島カフルイを砲撃し、さらに17日にはハワイ南方180海里付近で、アメリカの貨物船マニニ(3252トン)を雷撃により沈めている。
24日にはハワイから約1600km離れたアメリカ領有の離島、パルミラ環礁のアメリカ軍基地を砲撃。その後、クェゼリンに寄港してからミッドウェー、アリューシャン方面を偵察している。年が明け昭和17年(1942)2月19日、ようやく横須賀に帰投、その後すぐに呉(くれ)に移動している。ここで艦長が井上規矩少佐から宇野亀雄(うのかめお)少佐に変わった。宇野少佐は後に伊号第52潜水艦艦長としてドイツに向かい、大量の金塊とともに深海に沈んだ。それに関しては、以前に触れている(2023年1月17日配信)通り。
4月15日には呉を出港してクェゼリンに向かい、5月20日に伊号第175潜水艦に改称された。同日、飛行艇によるハワイ空襲を意図した、第2次K作戦に参加するためにクェゼリンを出港。だがこの作戦は中止となったため、オアフ島南西沖まで進出したものの、6月20日にクェゼリンに帰投している。
7月8日に再びクェゼリンを出港し、オーストラリア東方の海域に進出。そこで通商破壊戦に従事した。この出撃でオーストラリアの貨物船アラーラ(3279トン)と同ムラダ(3345トン)、自由スランスの鉱石運搬船カグー(2795トン)、オーストラリアのトロール漁船ダレンビー(233トン)を撃沈・撃破している。8月12日にアメリカのドーントレス爆撃機の攻撃で損傷したので、17日にラバウルに帰投し、修理が施された。
修理もわずか5日間で終了し、22日には早くもラバウルを出港、ソロモン諸島方面の哨戒(しょうかい)任務に就いている。9月21日にトラックに帰投。その後もガダルカナル島周辺に出撃している。11月20日に給油船として徴用されていた日新丸(16801トン)と衝突し、比較的長期の修理を要することとなった。伊175の排水量は1810トンなので、相手は軍艦でなくてもダメージは大きい。
それまで文字通り休む間のなく東奔西走(とうほんせいそう)、その任務も様々なところから、潜水艦がいかに「便利屋」的使われていたのかがわかるというもの。この修理期間中に、艦長が宇野少佐から田畑直(たばたすなお)少佐に交代している。

伊174型潜水艦(海大6型B)の2番艦。太平洋戦争では攻略支援や哨戒活動、輸送任務など、様々な作戦に参加。リスカム・ベイを撃沈したギルバート方面での作戦には、9隻の潜水艦が投入され、無事に帰還したのは伊175を含む3隻のみであった。
昭和18年(1943)3月15日、第11潜水隊が解隊したことにより、伊175は第12潜水隊に編入される。そして5月17日にはキスカ島撤退作戦に参加するために呉を出港。その後、幌筵島(ぱらむしるとう)に移動し、キスカ島への物資運搬と人員収容作業に従事した。
キスカ島撤退作戦が奇跡的に大成功のうちに終了すると(2021年8月17日〜12月21日配信)、伊175は幌筵を後にして8月10日に呉に帰投した。次に呉を出港するのは9月19日で、ウェーク島方面に向かっている。
11月19日、ギルバート諸島のマキン島に対してアメリカ軍の攻撃が始まった。この報を受け、伊175は急ぎマキン島へと向かう。21日になるとタラワ島への攻撃も始まる。
伊175がこの戦場に到着したのは、両島が陥落した23日になってからだ。だが田畑艦長は同海域にとどまり、哨戒任務を継続。現地時間11月24日未明、浮上航行中に3隻の空母リスカム・ベイ、コーラル・シー、コレヒドールを中核とした部隊を発見する。その刹那、護衛の戦艦ニューメキシコが発したレーダー波が、伊175を捉えた。
「ただちに急速潜航!」
伊175は逆探を装備していたので、田畑艦長はすぐさま姿をくらまし、相手にレーダーの誤反応だと思い込ませたのである。その間、田畑艦長は空母を攻撃することを乗組員に伝え、4本の酸素魚雷を準備させた。
アメリカ艦隊が形成していた輪陣形を、田畑艦長は慎重に、かつ大胆さを持ってかいくぐる。そして約900mの位置まで近づくと、リスカム・ベイは艦載機を発艦させるために船首を風上に向け始めた。その瞬間、伊175に横腹を見せる形になったのだ。
「魚雷1番から4番、てー!!」
艦長の命令が響き、それが魚雷発射室まで復唱されていく。ズシンという重い衝撃を残し、魚雷が勢いよく飛び出した。うち1本がリスカム・ベイの船尾付近に命中。残りの2本はコーラル・シー、1本はコレヒドールの、いずれも至近を通過していった。
リスカム・ベイは航空機用爆弾庫にあった爆弾が誘爆し、瞬く間に大爆発を起こし後ろ半分が吹き飛んだ。この艦には空母部隊の司令官ヘンリー・マストン・ムリニクス少将が坐乗(ざじょう)していたが、艦長以下600名を超える乗組員とともに、海に没している。
伊175はその後、護衛の駆逐艦から執拗な攻撃を受け、少なからず損傷を被っているが、何とかやり過ごすことに成功し、無事にクェゼリンへ帰投した。こうして玉砕したマキンタラワの守備隊の無念を晴らしている。

田畑直少佐は伊175艦長となった直後、キスカ島撤退作戦に参加。物資16トンの揚陸と人員70名の撤収に成功する。リスカム・ベイ撃沈の殊勲に対しては、第6艦隊司令官高木武雄中将が田畑少佐に表彰状を授与している。