潜水艦による戦果が乏しかった頃 関係者すべてに希望を与えた「伊6潜水艦」の殊勲
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
伊号第6潜水艦(以下・伊6)は、昭和5年(1930)に締結された、ロンドン海軍軍縮条約の下、大日本帝国海軍が計画した第一次補充計画で建造された伊1型潜水艦の6番艦である。航続力と索敵に優れた巡洋潜水艦で、川崎重工業神戸造船所で起工し、昭和9年(1934)3月31日に進水。翌年の5月15日に竣工した。同時に横須賀鎮守府(ちんじゅふ)の所属となる。

伊6潜水艦の魚雷発射管は艦首に4門、艦尾に2門であった。サラトガへの雷撃を行った際、艦首の発射管が1門損傷していたため、不利な位置であったにもかかわらず、3本しか発射することができなかったのだ。
昭和12年(1937)7月7日に起こった盧溝橋(ろこうきょう)事件は、日本と中華民国が全面戦争に踏み込む扉を開いた。8月21日になると伊6は伊1、伊2、伊3、伊4、伊5という同型の潜水艦と、戦艦長門(ながと)、陸奥(むつ)、榛名(はるな)、霧島(きりしまs)、軽巡洋艦五十鈴(いすず)とともに、長江河口で封鎖作戦を行っている。だが中華民国との戦いは、陸戦がメインだったため、戦果らしい戦果には恵まれなかった。
アメリカとの戦争が決定的となった昭和16年(1941)1月、伊6は新たな艦長を迎えている。海兵51期の稲葉通宗(いなばみちむね)である。同期には、後に空母ワスプを撃沈する木梨鷹一(きなしたかかず)、軽巡洋艦ジュノーを轟沈させた横田稔(よこたみのる)、甲標的搭載艦を指揮した花房博志(はなぶさひろし)など、優れた潜水艦乗りがいた。
同年11月16日、横須賀を出港した伊6は、真珠湾(しんじゅわん)攻撃に参加すべくハワイ近海へと向かう。真珠湾攻撃の当日は、モロカイ島の北方海域で哨戒(しょうかい)に当たった。そして真珠湾攻撃後も、同海域にとどまり哨戒を続けている。9日にはカウアイ海峡に移動。すると空母1隻と重巡2隻、駆逐艦数隻による機動部隊を発見する。だが距離が離れていたことで、攻撃に移ることはできなかった。
年が明けてもハワイ周辺にとどまっていた伊6は、次第に燃料の残量に危機感を覚えるようになっていた。そんな状態であった1月10日、レキシントン型空母発見の報が僚艦の伊18から届く。そこで僚艦とともに捜索列を形成し、空母が現れるのを待ち受けた。
1月12日は敵の哨戒機が現れたことで、燃料の残量を気にしつつも、5回の急速潜航を行う。そしてその日の日没頃、ついにレキシントン型空母を発見する。しかしこの時も空母との距離が2万5000mもあった。
「我が方は水中で6ノットしか出せないが、敵空母は14ノットで航行中だ。このままでは襲撃に適した位置につけることができない」
稲葉艦長は、今回も大きな獲物を逃してしまうのかと、歯がみする。この時、伊6が搭載していたのは八九式魚雷で、これは射程が7000m。とはいえ6本を発射して、確実に1本を命中させるためには、標的との距離を1500mまで縮める必要があった。
空母が針路を変更するなどの幸運もあったが、周囲が暗くなり視認するのも難しくなってくる。そこで稲葉は空母との距離が4300mになったところで、4本の魚雷を発射することを決断。ところが艦首にある4門の発射管のうちの1門が故障、射出されたのは3本だけであった。稲葉は心中「1本も命中することはないだろう」と思っていた。ところがしばらくすると、伊6の艦内に2回の爆発音が響いた。護衛の駆逐艦から攻撃を受けてしまうので、浮上して戦果を確認することはできなかったが、稲葉艦長は状況から空母を撃沈したものと判断、報告を入れている。

稲葉艦長と伊6の帰投は喝采を持って迎えられた。潜水艦による大型空母を撃沈というニュースは、すべての潜水艦乗りの目標となった。稲葉は山岡荘八の取材を受け、『海底戦記』として発表されている。
伊6が攻撃したのは、当時世界最大級の空母であったサラトガである。この日はエンタープライズと合流するため、ハワイを出港したところであった。魚雷は左舷中央のボイラー室付近に2本が命中。激しい衝撃の後に凄まじい浸水を起こし、乗務員は沈没に備え救命胴衣を着用したほどであった。
だが沈没までには至らず、真珠湾に引き上げている。その後、6カ月にわたり戦列を離れることとなった。一方の伊6はその日のうちに哨戒海域を離脱し、22日にはクェゼリンの基地に帰投した。その時、燃料の残りはわずか800ℓという、まさに薄氷を踏むような航海であった。
この時は空母撃沈と判断されていたため、伊6と稲葉艦長はなかなか戦果に恵まれなかった潜水艦関係者に、明るい希望を与えてくれたのであった。

1942年1月12日の伊6による雷撃で戦列を離れたサラトガは、その年の6月に戦列復帰。7月にはソロモン方面に出撃するが、8月31日に伊26からの雷撃を受け、またも航行不能となり3カ月戦列を離れた。伊26の艦長は稲葉と同期の横田稔であった。