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遥か異郷の地・マダガスカル島でも日本海軍潜水艦部隊は死闘を演じた

海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり


日本海軍の快進撃により、インド洋の制海権の大半を取られたイギリス軍は、活路を求めヴィシー・フランスが支配するマダガスカル島に軍を派遣した。ドイツと結ぶヴィシー・フランスはドイツに助けを求め、ドイツは日本海軍に派兵を依頼したのであった。


 

マダガスカル島に上陸するイギリス軍。このアイアンクラッド作戦には、空母や戦艦を含む多数の艦艇、歩兵4旅団、5つの奇襲部隊など圧倒的な兵力を投入。対するヴィシー・フランス軍の陸上兵力は約8000人であった。

 アフリカ大陸の南東、インド洋西部に浮かぶマダガスカル島は、世界第4位の面積を誇る島だ。現在は全島がマダガスカル共和国となっているが、1940年代はフランスの植民地であった。第2次世界大戦が始まると、ナチスドイツに降伏したフランスには、親ドイツのヴィシー政府が誕生。当時のマダガスカル総督はヴィシー政府支持を表明する。

 

 ドイツ・イタリア両軍を中心とした枢軸国側は、地中海から北アフリカまでを勢力下に置いていた。そのためインドやオーストラリアに向かう連合国側の船団は、地中海からスエズ運河を通る航路は使えず、喜望峰を越えインド洋に迂回する航路を利用。マダガスカル島はこの迂回航路の途上に位置する、重要な軍事拠点であったのだ。

 

 194112月、日本軍は対英米蘭と戦端を開くと、1942年3月末までに東南アジア全域を勢力下に収めてしまう。さらにイギリスの植民地であったビルマ南部まで攻略し、インド方面にも進撃しそうな勢いであった。

 

 実際、1942年初頭のインド洋では、日本海軍の潜水艦は敵の制約を受けずに行動することができた。連合国側からすると、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島のフランス海軍基地を、日本海軍が使用する事態も予想できた。それを危惧したイギリス陸海軍を中心とした連合軍は、マダガスカル島への上陸作戦を決定する。

 

 この作戦にはイギリス海軍の空母イラストリアスとインドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦を援護。さらに南アフリカ空軍も参加し、1942年5月5日にマダガスカル島北端のディエゴ・スアレス(現アンツィラナナ)西のクーリエ湾とアンバララタ湾に上陸。わずか2日でディエゴ・スアレスのヴィシー・フランス軍は降伏し、主力は南部に逃れてしまった。

 

 連合軍の動きを事前に察知したフランスは、ドイツ軍に増援を要請。そしてドイツは、日本にマダガスカルの英軍攻撃を依頼してきたのである。それを受け日本海軍は上陸作戦が始まる前の4月22日には伊30、さらに4月30日には伊10と特殊潜航艇甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20がペナンを出撃。

 

 事前に伊10の搭載機がディエゴ・スアレス港を偵察飛行した際、クイーン・エリザベス級戦艦1隻(実際ラミリーズはリヴェンジ級であった)、巡洋艦1隻が在泊しているのが確認・報告されている。伊30と伊10はさらにアデン、ダーバンなどを偵察するも、有力な敵を発見できなかったため、甲標的を搭載した3潜水艦でディエゴ・スアレス港を攻撃することとなった。

 

 5月31日の日没後、ディエゴ・スアレス沖に達した伊16と伊20から、甲標的が発進した。もう1隻の伊18は、左舷エンジンが故障して復旧の見込みが立たなかったことから、攻撃参加を断念している。

 

 2隻の甲標的はイギリス側に発見されることなく港内に侵入し、日本海軍自慢の酸素魚雷を発射した。この魚雷は航跡をほとんど描かないため、相手に気づかれることなく1本がラミリーズの左舷A砲塔前部に、もう1本は6993トンの大型油槽船ブリティッシュ・ロイヤルに命中する。

 

 ブリティッシュ・ロイヤルは轟沈し、ラミリーズは弾薬庫に浸水するという大破であった。ラミリーズが戦列に復帰するのは、1年後の1943年5月まで待たなければならなかったのである。この攻撃により、イギリス軍は大パニックに陥る。彼らは手当たり次第の爆雷攻撃を夜通し繰り返しつつ、防潜網の敷設に奔走する始末であった。

ディエゴ・スアレス湾に停泊する戦艦ラミリーズ。魚雷を受け大破した後、応急修理を受けダーバンに向かう。そこで修理するも完璧とはならず、イギリスに戻っている。結果、戦列復帰に1年を要したのであった。

 十分過ぎる戦果を挙げた甲標的は帰路、2隻のうちの1隻がノシ・アレス島に座礁してしまう。艇長の秋枝三郎(あきえださぶろう)大尉と艇付の竹本正巳一等兵曹は艇を放棄。マダガスカル島に上陸し、陸路で会合予定地点を目指した。

 

 2人は6月2日に、会合地点付近のアンドラナボンドラニナという集落に達する。だがここで食料を調達したときに村人に怪しまれ、探索中のイギリス軍に通報されてしまう。

 

 駆けつけたイギリス軍部隊15人は、日本兵に向かって降伏勧告をする。しかし両名はこれを拒否。軍刀と拳銃で果敢に戦いを挑んで戦死する。イギリス軍側も1名が戦死、5人が重軽傷を負っている。その後、2人の遺体はイギリス側によって埋葬されている。会合地点で両名の帰りを待っていた母艦・伊20は、探索を諦めその日のうちに引き揚げた。

 

 結果、マダガスカルの戦いにおける戦果は戦艦1隻大破、大型油槽船1隻撃沈。地上戦では数で勝るイギリス兵に損害を与えるというものであった。

 

甲標的でマダガスカルやシドニーに出撃した将兵。前列の真ん中が秋枝三郎大尉、秋枝の後ろに立つのが竹本正巳一等兵曹。マダガスカル島での陸戦で戦死後、秋枝は中佐、竹本は特務少尉に特進している。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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