日本海軍潜水艦のなかで3番目に撃沈隻数が多い「伊26」のフライング攻撃
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
真珠湾攻撃が行われる前、哨戒(しょうかい)と開戦後の通商破壊任務を帯びた潜水艦部隊は、遥か彼方のアメリカ本土沿岸にまで出撃していた。その中の1隻、伊号第26潜水艦は、真珠湾攻撃よりも20分、フライング攻撃を行っている。

伊26は昭和16年(1941)11月6日に就役。19日には早くも横須賀から出撃している。この艦は翌1942年2月に行われた、2回目の真珠湾攻撃であるK作戦にも参加。飛行艇が帰投に失敗した際に備え、待機する役であった。
「艦長、アメリカの輸送船らしき船影が見えますが攻撃しますか?」
「いや、まだだ。宣戦布告が出ていない」
昭和16年(1941)12月7日(日本時間)、サンフランシスコ沖300海里を航行中だった伊号第26潜水艦(以下・伊26)は、陸軍向けの物資を積んだ米オリバー・J・オルソン社所有の貨物船シンシア・オルソン号(2,140トン)を発見した。だが艦長の横田稔(よこたみのる)中佐は、逸る乗組員を制止、貨物船の追跡を開始する。
シンシア・オルソン号はワシントン州のタコマを出港し、ホノルルへと向かう途上であった。一方の伊26は去る11月19日に横須賀基地を出撃。長期哨戒任務に赴いた。日米を取り巻く状況は、まさに“風雲急を告げる”といった時期である。伊26はいつ帰投できるかわからなかったため、本来は水上機を収めておく格納筒にも、食料が積み込まれていた。
10ノットで南下を続けるシンシア・オルソン号を見失わないように、伊26は慎重に追跡を続けた。そしてハワイの北東1000海里に達した時、日付は開戦予定日の12月8日(日本時間)を示した。横田艦長はなおも慎重に時間を計り、開戦時刻とともに浮上。艦載砲による攻撃を開始する。魚雷も1本発射したが、途中から曲がってしまい外れた。
じつは出港前、竣工したばかりの伊26のために九五式酸素魚雷を用意することができず、旧式の魚雷が10本搭載されていた。それが実戦で不具合を起こしてしまったのである。
だが横田艦長は動じることもなく、ひと通り砲撃を終えると、一旦潜航した。しばらく待つも沈没する気配がなかったので、再び浮上して再度攻撃を開始した。じつはこの行為は、シンシア・オルソン号の乗組員が脱出できるように配慮したものであった。
2度目の砲撃を終えると、伊26は再度潜航し、日没を待った。日が沈んでから浮上すると、そこにはシンシア・オルソン号の姿はなかった。この撃沈は日本海軍史上で最初の、潜水艦による敵艦船撃沈記録となった。この時に発射した砲弾は47発である。
ちなみに伊26による攻撃開始は、真珠湾攻撃が始まった時刻の20分前であった。

横田稔の最終階級は海軍大佐であった。海軍兵学校に進み、海兵51期として卒業。同期で潜水艦専門の勤務に就いたのは、ワスプを撃沈した木梨鷹一、サラトガを雷撃した稲葉通宗ら18名だった。
この伊26が挙げたもうひとつの特筆すべき戦果は、昭和17年(1942)11月13日にアメリカの軽巡洋艦ジュノーを撃沈したことだ。この年の10月5日、トラック島の基地を出撃した伊26はガダルカナル島方面に向かう。11日にガダルカナル島南西沖で、北上中のアメリカの巡洋艦を発見したので、攻撃のために潜航する。しかし攻撃位置への移動ができず、夜間に報告を入れるにとどまった。
18日には水上機母艦・千歳(ちとせ)から発進した零式水上偵察機へ給油。同じ日にアメリカの哨戒機と遭遇したため、急速潜航してこれをやり過ごした。その際、艦首がサンゴ礁に接触してしまい、6門ある魚雷発射管のうちの3門を損傷してしまう。
そして11月13日、潜航中にアメリカの重巡洋艦サンフランシスコを発見する。近くには軽巡洋艦のヘレナ、同じくジュノーなども航行していた。格好の獲物であったが、攻撃力は半分しかない。横田艦長は躊躇せずに残りの3門から魚雷を発射した。ちなみに、この時には搭載されていた魚雷は、すべて九五式酸素魚雷に交換されている。
そして3本のうちの2本がジュノーの左舷中央部火薬庫付近に命中、大爆発を起こす。船体は2つに折れ、わずか20秒で轟沈してしまった。ジュノーの乗組員は、艦長をはじめとする乗組員のほとんどが戦死している。
その後、駆逐艦フレッチャーの追撃をかわした伊26は、11月29日に無事トラック島に帰投。魚雷発射管の修理を受けている。

ジュノーはアトランタ級軽巡洋艦の2番艦。第3次ソロモン海戦で損傷を受けたため、基地に退却する途上、伊26の雷撃を受けてしまい轟沈した。この時、僚艦のヘレナが救助行動をせずに離脱したことが問題になった。