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インド独立運動家「チャンドラ・ボース」を無事に運んだ日本海軍の名物潜水艦・伊29

海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり


「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期に、ヨーロッパの地に留まっていることは、まったく不本意の至りである」

 これは英米に宣戦布告し、瞬く間にイギリス領香港やマラヤ(18世紀から20世紀にかけてマレー半島からシンガポール島にかけて存在した海峡植民地)を攻略した日本軍の、驚くべき快進撃を耳にしたインド独立運動家スバス・チャンドラ・ボースの言葉である。


 

1943年4月28日、インド洋上でドイツ海軍のU180から日本海軍の伊29に移乗した後、伊29乗組員と記念撮影に収まるチャンドラ・ボース(前列左から2番目)。この後、インドネシアから空路で日本に向かった。

 過激な独立運動家であったチャンドラ・ボースは、インドの宗主国であったイギリスから危険視されていて、第2次世界大戦が勃発すると、カルカッタの自宅に軟禁された。だが1941年4月2日、協力者によりイギリスの敵国であるドイツのベルリンに、潜伏することに成功していたのだ。

 

“敵の敵は味方”という考えのもと、ボースはインドへの攻撃を含む、インド独立のための覚書をドイツ外務省に提出。だがドイツ側の回答は「インド攻撃には2年間は待ってもらわなければならない」という、ひどく期待外れのものであった。ヒトラーはこの時、イギリスとの早期和平を望んでいたのである。

本来、ボースはイギリスと同じくらいドイツを嫌っていた。それでもインド独立のためには利用しようと考えたのだ。だが1941年に面会したヒトラーは、心中「インドはイギリスに支配されるのが望ましい」と考えていた。

 ボースはムッソリーニにも協力を求めるため、ローマにも赴(おもむ)いたが、わずかにチャーノ外相と面会できたにすぎなかった。こうしてヨーロッパで悶々とした日々を過ごしていた194112月、日本軍によるイギリス領香港やマラヤへの攻撃を知ったのであった。ボースはすぐさまドイツの日本大使館に接触し、日本に行くことを熱望したのである。

 

 日本大使館も当初は「考慮中」という、冷淡な回答しか出さなかった。当時の日本は外務省、陸軍参謀本部ともにインド情勢に関しての分析が進んでいなかった。だがマレー作戦が順調に進み、海軍は昭和17年(1942)4月、セイロン沖海戦で連合国海軍を撃破。インド洋のイギリス海軍の勢力を、大きく後退させることに成功している。

 

 こうして日本軍は本格的にインド方面への侵攻を視野に入れるようになり、1942年6月15日にシンガポールを拠点として、インド独立連盟が設立された。指導者には1915年から日本に逃れていた、インド独立運動家のラース・ビハーリー・ボースが就いている(チャンドラ・ボースと血縁関係ではない)。

 

 ビハーリー・ボースが体調を崩したため、その後継者として注目されたのが、有名人であったチャンドラ・ボースである。だが欧州からアジアに至るまで戦争状態のため、イギリスの植民地であったインド人がドイツから日本まで移動するのは、陸路はもちろん海路や空路のいずれも困難であった。日独両政府が協議した結果「潜水艦による移動がもっとも安全」ということになったのである。

チャンドラ・ボースは1897年、当時イギリス領インド帝国のベンガル州カタック(現在のオリッサ州)で生まれた。父親は弁護士であった。ボースはインド人の人権を擁護した父の姿から大きな影響を受けている。

 

 ドイツのUボートにボースを乗せフランスのブレストを出港し、マダガスカル島の東南沖で日本の潜水艦と会合。そこでボースは日本の潜水艦を乗り換え、日本占領下のインドネシアへと向かい、航空機に乗り換えて日本へ向かう、という作戦であった。

 

 この作戦に選ばれたのは、伊号第29潜水艦(以下・伊29)であった。伊29は昭和17年(1942)2月27日に竣工、同時に艤装(ぎそう)員長の伊豆寿一(いずじゅいち)中佐が艦長に着任。通商破壊戦に従事し、1942年中にはイギリス貨物船ガスコン(4131トン)、ハレスフィールド(5299トン)、オーシャン・オナー(7147トン)、アメリカ貨物船ポール・ラッケンバック(6579トン)、イギリス貨客船ティラワ(10006トン)、ノルウェーのタンカーベリタ(6323トン)を撃沈という戦果を挙げている。

 

 昭和18年(1943)3月、ペナンの基地に戻った伊29を待ち受けていたのは、ドイツから要人を乗せインド洋にやって来るUボートと会合。要人を無事に日本占領地に運ぶ任務であった。4月5日、ドイツへと赴く江見哲四郎海軍中佐、友永英夫(ともながひでお)技術中佐両名と、89式空気式魚雷1本、赤城(あかぎ)型空母と特殊潜航艇の設計図、金の延べ棒など11トンの貨物を乗せ、ペナンを出港した。

 

 伊29は4月26日、予定前日にマダガスカル島南東450海里の会合点に到着。翌日にはU180が姿を現したが、海が荒れていたので北東方向に移動。28日になると波が穏やかになったため、2隻は機関を止め積荷と乗客の移動を行う。ドイツ側から引き渡されたのは吸着地雷1発、キニーネ2トン、砲身、弾薬、ソナー欺瞞(ぎまん)用デコイなどの物資、それにチャンドラ・ボースと秘書ハッサンである。

 

 U180と別れた伊29は、5月6日にインドネシアの最北端かつ最西端の港湾都市サバンに到着。チャンドラ・ボースはここから航空機に乗り換え、無事に日本の地を踏んだ。この任務を見事に果たしたことで、伊29は一躍注目される潜水艦となった。

 

 7月にはイギリス貨客船ラフマニ(5291トン)を撃沈。8月19日には呉に入港し、整備を受けた。そして1010日、伊19艦長時代に空母ワスプを撃沈した著名な潜水艦乗り、木梨鷹一(きなしたかかず)中佐が新たな艦長として着任。遣独潜水艦に選ばれ、ドイツへと旅立っている。

その後、遣独潜水艦に選ばれた伊29。1944年3月11日にドイツ占領下のフランス、ロリアン港に入港。写真は4月16日にロリアン港を出港する際のものとされる。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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