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陸上と海中で別の顔をした、機に応じて変に即応する俊敏な判断力の持ち主呑兵衛艦長「安久榮太郎」

海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり


艦長から最下級の水兵まで激務をこなし、危険に晒(さら)されるのは水上艦の比ではない潜水艦。自ずと乗務員には肝の座った者が少なくない。そんな中、希代の呑兵衛(のんべえ)で知られた安久(あんきゅう)艦長の活躍と逸話は、刮目(かつもく)すべきものであった。


作戦行動中とそれ以外とでは、まるで別人の顔を持っていた安久艦長。飲酒による失敗も多かったが、戦場においては軍人の本分をいかんなく発揮する漢であった。伊38艦長時代は中佐であったが、最終階級は海軍少将。

「ワレ、揚錨機(ようびょうき)故障」

 

 昭和14年(193911月、四国の宿毛湾(すくもわん)で約半年に渡り行われた連合艦隊の訓練最終日、旗艦の信号降下とともに各艦が一斉に錨(いかり)を捲(ま)き始めた。ところが第18潜水隊の司令潜水艦であった伊号第54潜水艦(以下・伊54)から、件の信号が揚げられたのである。おかげで伊54の奥に停泊していた2番艦や3番艦も巻き添いを食い、修理完了まで出港できなくなってしまったのだ。

 

 ところが実際は揚錨機の故障などではなく、安久榮太郎(あんきゅうえいたろう)艦長が行方不明となっていたため、出港できなかったのである。この安久艦長、当時の潜水艦乗りでその名を知らぬ者はいないといっても過言ではない人物であった。それは安久の度を越した酒癖の悪さに由来している。

 

 安久は素面の時は温厚な人柄で、しかも命令を忠実に実行する勇敢な軍人であった。だがひとたびアルコールを口にすると、ガラリと人が変わってしまい、酒に溺れてしまうのである。酒飲みにありがちな傾向ではあるが、安久の場合は常識を逸脱していたのだ。

 

 彼は上陸したら最後、飲み屋街の何処かに、深く静かに潜航し続けた。潜水艦の泊地であった宿毛や宇和島のような小さな町でも、所在を突き止めるのは至難の業だった。というのも彼は決まって薄汚い小料理屋か、いかがわしい暖簾の下がった店に長時間潜航していたからである(海軍士官は通常、場末の居酒屋などには出入りしなかった)。

 

 宿毛湾を埋め尽くしていた艦艇が、一目散に母港へと去ってから2時間あまりが経過した後、グデングデンに酔っ払った安久艦長を乗せた内火艇(ないかてい)が伊54に戻ってきた。この日は呉(くれ)の料亭で、定期移動による転勤者の送別会が予定されていたが、日没までに入港できないとキャンセルとなる。宿毛から呉は120海里もあるので、到底日没には間に合わない。

 

 じつはこの1カ月ほど前に行われた恒例の特命検閲の日にも、安久艦長は行方不明となっている。特命検閲とは艦の軍紀風紀、加えて戦力などを査察する重要な行事。艦長不在ともなれば、本人だけでなく直属の上官まで責任を問われてしまう。困り果てた司令は、艦長は急性盲腸炎の疑いで宿毛病院に緊急入院したということにして、急場をしのいだ。

 

 度重なる失態のため、ついに安久艦長は陸上の閑職に左遷されてしまう。だが日米の間で風雲急が告げられていた昭和16年(1941)8月、伊号第1潜水艦長に任じられた。希代の呑兵衛艦長として知られていた安久だが、出撃となると同一人物とは思えない操艦を演じる。彼は出撃すると酒を一切口にせず、苦情ひとつ言わずに任務をこなしたのだ。

 

 安久中佐が真骨頂を見せたのが、開戦約1年後に伊号第38潜水艦(以下・伊38)の艦長となってからだ。昭和18年(1943)5月18日にラバウルに進出した伊38は、同地を母港として輸送任務に邁進することになる。潜水艦輸送は地味なうえ危険が大きい任務なので、敬遠する艦長が多かった。しかもこの頃は潜水艦の消耗が激しかったにも関わらず、安久率いる伊38はまるで無人の大海原を往くが如く、黙々と任務をこなしたのである。

 

 5月下旬から8月下旬にかけ、ラエをはじめとするニューギニアへ11回、ニュージョージア諸島のコロンバンガラへ1回の輸送作戦を成功させている。9月は12日にブーゲンビル島ブイン、27日にニューブリテン島のスルミへ向かう。スルミへは10月に3回、11月と12月にも1回ずつ赴いている。さらにその間には、ニューギニア島シオへも1031日、11月7日、25日、1222日に輸送を果たしている。安久が昭和18年中に成功させた輸送は23回、753トンにも及んだ。

 

 同年中に40隻の潜水艦を投入して行われた輸送は227回だったので、安久がその1割を担っていたことになる。昭和19年(1944)1月7日、伊38は整備のために呉に帰投。安久は5月1日、大佐に昇進する。

 

「安久は酒に強いだけでなく、悪運にも強いようだ」と、陰口を叩く者もいたが、作戦中の安久の機略は運で片付けられないほど、卓越したものであった。その抜群の功績は上聞に達し、昭和19年4月下旬、単独で昭和天皇に拝謁(はいえつ)するという栄誉を賜った。さらに連合艦隊司令長官から、感状が授与されている。

伊38は昭和16年(1941)6月19日に佐世保海軍工廠で起工。昭和17年(1942)4月15日に進水し、12月5日には安久中佐が艤装(ぎそう)員長に着任する。翌年1月31日に就役し、安久が艦長となった。伊15型潜水艦の19番艦である。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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