破天荒な行動・型破りな快男児 そして不死身と謳われた潜水艦長 板倉光馬少佐 武勇譚(3)
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり
破天荒な振る舞いが多く、単なる問題児と思われがちな板倉光馬(いたくらみつま)少佐。ところが彼の、潜水艦に関する真摯な取り組みは他者を寄せつけなかった。専門外の応急処置法でも、画期的な方法を考案している。

呂号第34潜水艦は常備排水量940トン、水上速力18・9ノット、水中速力8・2ノット。航続距離は水上12ノットで8000海里。兵装は艦首に魚雷発射管4門、40口径八八式8cm高角砲1門、13mm機銃1挺。写真は同型の呂33。
昭和14年(1939)11月、板倉光馬大尉は水雷(すいらい)学校の高等科学生となった。海軍士官が砲術(ほうじゅつ)長とか水雷長といった地位に就くには、志望する術科学校の試験に通り、高等科学生の教程を修得する必要があった。どの学校も受験資格が得られるのは、大尉になって1年以上の海上勤務を務めた者に限られた。かつ受験できるのは3回まで。そこで合格できないと、海軍内で冷飯食いとなってしまう。
当時は大艦巨砲主義が幅を利かせていたため、一番人気は砲術学校であった。その影響もあり、将来、提督を目指していた士官はみな砲術学校を志望した。そんな中、水雷学校の志望者は、少佐や中佐でなれる駆逐(くちく)艦長や潜水艦長を目指していたのだ。
ところが同格の駆逐艦長になるより、潜水艦長への道筋の方が複雑な上、歳月も要してしまう。それもあり潜水艦は敬遠されていたのである。艦長になるにはまず水雷学校を卒業し、潜水艦の航海長として複雑な特性と、非人間的な環境とを慣熟する。
次いで潜水学校の乙種学生を命じられ、主として潜航指揮法の修得に務める。その後、練習艦や小型艦の水雷長を命ぜられ、そこから艦隊の潜水艦水雷長を拝命すれば、潜水艦長の折紙を与えられたのも同然となる。だがその前に、さらに潜水学校甲種学生となり、襲撃法をマスターしなければならない。
板倉大尉は水雷学校を卒業すると、同日付で呂号第34潜水艦の航海長に補された。すぐさま同型の呂号第33潜水艦とで第21潜水隊が編成され、昭和15年(1940)5月から4カ月ほどかけ、南洋群島の兵要調査にあたることとなった。日米が開戦すれば、それらの海域は戦場となるのは必至だからである。
そして同年9月、潜水学校乙種学生を命じられ、呂34を退艦した。ここでの教務は潜航指揮法の演練が主なので、練習潜水艦に乗り組んでの実習がほとんどだ。その際に行われた防水訓練が、決められたことをただなぞるだけ、それも水上艦艇と同じやり方なのに、板倉は驚いてしまった。予備浮力が格段に小さく、どこから浸水するかわからない潜水艦では、役立たずの訓練と感じたからだ。
それから板倉は、卒業論文のテーマを「潜水艦の防水対策」とすることにし、1カ月あまりでまとめ上げた。それは区画ブローを中心とした、効率的なダメージコントロールの採用が中心になっている。さらに15%にも満たない日本の潜水艦の予備浮力を、将来的には30%以上にすることなどを提案した。これらは後に高く評価され、友永英夫(ともながひでお)造船少佐によりその効果も実証される。こうして潜水艦の応急処置として、正式採用されたのである。
とにかく少尉候補生時代から数々の失敗談を残してきた板倉大尉だったが、こと潜水艦に関することとなると、その愛を感じさせてくれる逸話を多く残している。乗り組んだ伊号第68潜水艦を離れ空母加賀(かが)に転勤することとなった際、よく殴ることで知られていた司令の石崎昇大佐から、こう言われた。
「わしは随分と若い者を殴って鍛えたが、貴様ぐらい強情な奴は初めてだ。どうだ、潜水艦が嫌になっただろう」
それに対して、板倉中尉(当時)は、
「私の考課表の第一志望、第二志望ともに潜水艦です。失礼ですが、司令のような方がおられると、潜水艦に人材は集まりません」
板倉中尉がみなまで言い終わらないうちに、石崎司令から特大の雷が落とされたという。

真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊は、日本海軍の空母艦載機による攻撃で壊滅的な被害を被った。この作戦には潜水艦部隊も参加していたが、湾内に侵入した特殊潜航艇を含め、目立った戦果は挙げられなかった。
「魚雷戦用意!」
渡辺勝次艦長の声が聞こえた瞬間、全員が弾かれたように持ち場で躍り上がった。いよいよ本物の潜水艦戦が始まるのだ。潜水学校を卒業後の昭和16年(1941)11月、板倉大尉は伊号第69潜水艦(以下・伊69)の水雷長兼分隊長となった。そして同年12月8日(現地時間7日)には、伊69を含む先遣部隊の潜水艦25隻が、真珠湾を要とする周辺海域に水も漏らさない陣を敷いていた。
機動部隊による真珠湾への強襲が成功した知らせを受けた伊69は、湾口に一番近い哨区に配備されていたこともあり、出撃してくる有力な敵を探していたのだ。そして艦長の号令を聞いた瞬間、乗組員の誰もが戦艦や空母を攻撃する姿を連想した。
「駆逐艦らしき艦影、右三十度・・・」
伝声管から聞こえてきた艦長の声を聞いた板倉大尉は、相手が小物だったため一瞬落胆してしまう。しかし発射した魚雷が全弾外れたうえ、駆逐艦からの爆雷攻撃を受け損傷、着底してしまう。応急処置で乗り越え、浮上することに成功。哨戒艇を振り切って再び真珠湾口に向かう。すると今度は防潜網に引っ掛かり、再び海底まで沈下してしまう。
そこで何とか浮き上がり、敵(かな)わぬまでも砲戦、魚雷戦で一矢報いようと艦内に溜まった水を手作業で前と後ろの魚雷発射管室に移し、艦のバランスをとった。こうした努力が実り、奇跡的に防潜網からも逃れることができ、浮上することに成功した。今度こそ、敵と撃ち合いになると覚悟をきめ、艦橋に飛び出た板倉大尉が見たのは、一寸先も見えないほどのスコールであった。
応急処置が効いたのは、板倉が提案した区画ブローの効果があったことは否めない。このように、十中十死以外は考えられない真珠湾での危機を乗り越えた板倉大尉。この後、まさに不死身と称されるのに相応しい活躍を重ねていくのである。

板倉が水雷長兼分隊長として乗り組んだ伊号第69潜水艦。昭和17年(1942)5月20日、艦名が伊号第169潜水艦に改名された。ハワイ作戦では25隻からなる潜水艦先遣部隊の1隻として真珠湾口に一番近い海域に進出した。