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伊勢型1番艦「伊勢」同様に世界的にも珍しい航空戦艦へと改造された伊勢型2番艦「日向」

日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第8回】


空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第8回は、初の純国産超ド級戦艦「扶桑(ふそう)」型の欠点を改善した「伊勢」型の2番艦で、「伊勢」と同じく航空戦艦に改造され、「伊勢」とほぼ同様の足跡を残した「日向(ひゅうが)」のエピソードである。


航空戦艦に改造された後、終戦間際に呉で大破着底した「日向」。飛行甲板前部が大破して大きく口を開けており、同中央部の艦載機昇降用エレベーターが下がっているのがわかる。終戦直後の撮影。

「扶桑」型は、せっかくの純国産の戦艦だったにもかかわらず、やはり「未経験の領域」において設計をおこなわなければならないという面も多かったため、当時、日本の軍艦設計の第一人者といわれた近藤基樹(こんどうもとき)博士が手がけたものの、就役後、いくつもの欠点や欠陥がクローズアップされることになった。

 

 いくさに用いられる軍艦、それも艦隊決戦の主力となる戦艦にとって、防御力や砲力に生じた欠点や欠陥は、なんとしても改善する必要があった。そのため、当初は姉妹艦4隻の建造が予定されていた「扶桑」型はネームシップの「扶桑」と2番艦の「山城(やましろ)」で建造を中止。残る3番艦と4番艦は不具合修正のため改設計が施された結果、改めて「伊勢」型と命名され、その2番艦が「日向」であった。

 

「日向」は、191556日に三菱重工長崎造船所で起工され、1917127日、東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみやよりひとしんのう)を招いて進水式が挙行された。そして1918430日に竣工している。

 

 しかし「日向」は、当時の日本海軍において「陸奥(むつ)」に次ぐ「呪われた戦艦」であった。その理由は、ボクサーの拳と同じく、戦艦にとっての戦うための「命」である主砲が、下手をすれば艦が爆沈するかも知れない危険性をはらんだ大事故を3度も起こしているからだ。

 

 1度目は、竣工から1年ちょっとの19191024日に、房総沖での演習中に第3砲塔が起こした爆発事故である。これは砲塔内での事故だったが、1924917日には、2度目の事故を起こした。これは、下手をすれば沈没の恐れもある危険な主砲絡みのもので、何と第4砲塔弾薬庫で火災が起こったのだ。

 

 そして3度目の事故は、194255日に伊予灘(いよなだ)で演習中、第5砲塔が爆発事故を起こしたのである。原因は、主砲薬室に砲弾と発射薬を装填(そうてん)後、砲尾が完全に閉鎖される前に発射薬が起爆したことによる爆風の逆流であった。そして60名以上の死傷者が生じてしまった。

 

「日向」はこの事故がきっかけとなり、第5砲塔を撤去。同位置に、対空戦闘用の3連装25mm機銃を4基設置した。

 

 そしてこの事故も影響して、「日向」と「伊勢」の2隻は、ミッドウェー海戦での正規空母4隻喪失の穴埋めとして、急ぎ航空戦艦へと改造されたのである。

 

 だが、「日向」もまた「伊勢」と同じく航空戦艦に生まれ変わったにもかかわらず、広い艦載機格納庫と飛行甲板を利用した物資運搬に用いられるばかりで、22機の艦載機を全機搭載し、航空戦艦として戦うチャンスはなかった。

 

 やがて戦争末期になると、やはり「伊勢」と同じく燃料不足で行動困難となり、呉(くれ)軍港に係留されて対空戦闘に従事する。一連の戦闘で多数の戦死傷者を出し、1945724日の呉軍港空襲では、艦長草川淳少将も戦死した。そして同月26日、ついに大破着底して終戦を迎えた。

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過去記事

白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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