民間造船所における戦艦建造技術確立の礎となる 金剛型3番艦「榛名」
日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第3回】
空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第3回は、日本海軍が初めて民間造船所に建造を発注した主力艦で、「金剛(こんごう)」型同型艦4隻中、唯一の太平洋戦争を生き残った幸運な艦とも評される「榛名(はるな)」である。

1934年8月、第2次近代化改装後の海上公試を行っている「榛名」。呉海軍工廠造船部の撮影。
「金剛」型は、超ド級巡洋戦艦を求めた日本海軍が、イギリスの最新建艦技術を学ぶため、その1番艦となる「金剛」を同国のヴィッカース社に発注。そして同型艦の2番艦である「比叡(ひえい)」は、横須賀海軍工廠で建造された。
しかし海軍は、国内の大手造船会社でも戦艦の建造を可能とするため、金剛型3番艦の「榛名」を神戸川崎造船所に発注。さらに同4番艦の「霧島(きりしま)」も、民間の造船会社である三菱長崎造船所に発注された。その結果、民間造船会社2社の競合のような事態が生じ、榛名の機関の試験に際して、その実施期日が予定よりも遅れたことで、川崎造船所の造機工作部長が自殺するという悲劇が起きたほどだった。
なお、「榛名」は1912年3月16日に起工され1913年12月14日に進水。1915年4月19日に竣工した。
「金剛」型4隻のうち、この「榛名」だけがブラウン・カーチス式直結タービンを搭載していたが、その理由は、川崎造船所がイギリスのジョン・ブラウン社と技術提携していたからであった。また主砲も、「金剛」と「比叡」はイギリスのヴィッカース社製36cm砲を搭載していたが、「榛名」からは国産の41式36cm砲を搭載している。さらに1916年には、同一目標に向けて全主砲をまとめて指向のうえ砲撃を加えることができる、イギリス海軍が使用していた方位盤射撃照準装置を、日本海軍で初めて装備した。
第1次近代化改装は、改装の内容が増えたため期間が長くなり、実に8年を改装に費やしている。加えて、その後にも約1年の第2次近代化改装を受けている。
太平洋戦争が勃発すると、「榛名」はマレー方面での作戦行動からクリスマス島砲撃を経て、ミッドウェイ作戦に参加。ソロモン方面の戦いでは、ヘンダーソン基地艦砲射撃を成功させ、南太平洋海戦にも出動。ガダルカナル島撤収作戦「ケ号」の支援、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と、日本海軍が戦った主要な海戦の多くに加わっている。
座礁による損傷を修理するため南方から日本本土に戻っていた「榛名」は、敗戦の年の1945年を内地で過ごすことになる。この頃にはもう、日本には自由に艦隊行動を行えるだけの燃料の備蓄がなかったからだ。同年4月、予備艦とされて対空砲台扱いとなる。そして呉(くれ)・江田島海域で何度ものアメリカ艦上機の攻撃を受けた。その結果、大破着底して終戦を迎えている。戦後の1946年7月、解体作業が終了した。
太平洋戦争に参加した12隻の日本海軍の戦艦の中では、高齢艦であるにもかかわらず、主要な海戦の多くを損傷こそ蒙(こうむ)ることもあったが生き残り、終戦まで残存した「榛名」は、ある意味で幸運な戦艦だったといえよう。