山本五十六が発案した「海軍航空隊」による奇襲
アメリカ太平洋艦隊の一大根拠地を叩いた奇襲作戦にまつわる航空エピソード【第2回】
航空機でハワイに停泊中のアメリカ艦隊を攻撃する−−。山本五十六(やまもといそろく)の中に芽生えたアイディアは、部下たち研究と努力により、実現可能なプランへと進化していった。真珠湾攻撃はどのように生み出されたのか? その真実に迫る。

海軍における航空主兵主義の最右力のひとり、大西瀧治郎。若き尉官時代、のち中島飛行機の創設者となる中島知久平機関大尉の起業に尽力。その折は軍籍から退くことも考えていたという。日本が停戦した翌日の1945年8月16日、割腹自決を遂げた。
日本とアメリカの国家間摩擦がますます大きくなりつつあった1940年3月、艦艇と艦上機の合同演習における艦上機隊の成果を目にした連合艦隊司令長官山本五十六は、傍らにたたずむ参謀長福留繁(ふくとめしげる)少将に呟いた。
「あれでハワイをやれんものかな」
いかにも海軍の航空畑出身の山本らしい見解で、今日では、パールハーバーを空から奇襲するという発想を彼が最初に匂わせた発言とされることも多い言葉だが、この時にはそれ以上の進捗はなかった(航空攻撃に限定したものではないが山本は対アメリカ戦におけるハワイ攻略の重要性をすでに1920年代末の佐官時代に発言しているとされる)。
しかし1941年の初頭になると、既述の「ジャッジメント」作戦の詳細などもヨーロッパから伝播し、山本の中で、パールハーバー航空攻撃の構想はいっそう具体性を帯びたものとなっていたと思われる。そこで山本は、航空畑の後輩のひとりで信頼していた第11航空艦隊参謀長大西瀧治郎(おおにしたきじろう)少将に内密に相談した。のちに航空体当たり攻撃(神風攻撃)の創始者と目される人物である。
大西は部下の先任参謀前田孝成大佐に調査させたところ、水深が浅いパールハーバーでの雷撃には浅深度雷撃(せんしんどらいげき)が可能な航空魚雷と、強力な戦艦の装甲を貫徹可能な大重量の徹甲爆弾が必要という結論が得られた。そして1941年2月、彼は第1航空戦隊参謀源田実(げんだみのる)少佐に対し、パールハーバー攻撃に必要な艦上機兵力を算出するよう極秘の指示を下した。
こうした草案を報告された山本は、懐刀の首席参謀黒島亀人(くろしまかめと)大佐と戦務参謀渡辺安次中佐にさらなる研究と検討を託し、図上演習なども経てその実施は確定的なものとなった。かくしてパールハーバー奇襲は「Z」作戦として現実のものとなるが、同作戦そのものの解説は先行の詳細な研究に詳しい。
そこで引き続き、攻撃に不可欠な海軍艦上機部隊の訓練や、要求された新型の魚雷と爆弾について紹介して行きたい。