日中戦争から終戦まで戦い抜いた撃墜王「上坊良太郎」と二式戦闘機「鍾馗」(中島キ44)
祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第9回
クセのある戦闘機ゆえ熟練パイロットでなければ、その性能を発揮できなかった二式(にしき)戦闘機「鍾馗(しょうき)」。ノモンハン空戦から終戦までを戦い抜いた陸軍エースパイロット上坊良太郎(じょうぼうりょうたろう)の戦技と、彼が搭乗した異能の戦闘機「鍾馗」の活躍に迫る!

二式戦二型乙。終戦時にフィリピンのクラーク・フィールドで撮影されたとされる機体。大直径の空冷星型エンジンであるハ109が搭載されているため機首部分が太く「頭でっかち」のシルエットを持つ。
日本陸軍航空隊は、異なる三つのカテゴリーに属する戦闘機の研究と開発を開始した。時に欧米列強で新世代の戦闘機が次々と開発されていた、1937年から1938年にかけてのことである。
この3機種のうちのひとつは、それまでの戦闘機の戦い方の主流だったドッグファイト(格闘戦)能力を重視した軽単座戦闘機。もうひとつは、重武装で高速のヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)能力を重視した重単座戦闘機。最後が長距離双発戦闘機だ。
軽単座戦闘機は、一式戦闘機「隼(はやぶさ)」として結実。続く重単座戦闘機も「隼」と同じ中島飛行機が手がけ、「隼」の「キ43」に対して一番違いの「キ44」とされ、ヒット・アンド・アウェー能力を重視したドイツのメッサーシュミットBf109など欧米列強の戦闘機事情も参考にした開発が進められた。
結果、開発はやや遅れたが、増加試作機を太平洋戦争初期の実戦に投入し、得られた運用評価に基づいて、1942年2月に二式戦闘機「鍾馗」として採用された。ハ41空冷星型エンジンを搭載する二式戦闘機一型(キ44-I)と、ハ41を出力向上モデルのハ109へと換装し、性能が向上した二式戦闘機二型(キ44-II)に大別できる。
「鍾馗」は、それまでの日本製戦闘機と比べると、速度は速くなっているもののドッグファイト能力に劣り、着陸速度が速いうえに離着陸時の前方視界が悪いせいで、未熟なパイロットが着陸事故を起こすことがままあった。そしてこのような理由から、従来の機種に乗り慣れたパイロットの中には、当初、本機を敬遠する者も少なくなかったという。
だが、本機に習熟したパイロットたちは、アメリカやイギリスの戦闘機が先に行うようになり、太平洋戦争中期頃からは常態化したヒット・アンド・アウェーの空戦に向いた機種として、「鍾馗」を高く評価している。
とはいうものの、やはり「鍾馗」は従来の陸軍戦闘機とは戦闘機としての性格がかなり異なるため、「暴れ馬」などと呼んで未熟なパイロットを乗せるのを控えた時期もあった。
なお、ヒット・アンド・アウェー向けに開発されたとはいっても、それは日本陸軍内での基準であり、外国での基準では、「鍾馗」の運動性能はかなり秀でたものと判断されていた。アメリカ軍が実施した戦後の鹵獲機(ろかくき)調査による本機の性能評価では、「第2次大戦の日本の陸海機の中で最良の迎撃戦闘機」と目されている。
しかし「大東亜決戦機」と称された優秀な万能戦闘機「疾風(はやて)」が登場した結果、「鍾馗」の生産は1944年末に終了。とはいえ、残存機は終戦まで使われ続けた。なお、連合軍は本機を“Tojo”のコードネームで呼んだ。
この「鍾馗」を駆って戦ったエースのひとりに、上坊良太郎がいる。1934年に滋賀県で生まれ、少年飛行兵となって訓練を受け、日中戦争で初撃墜を記録。ノモンハン事件では、ソ連機も多数撃墜した。
太平洋戦争勃発後、「隼」に乗って中国方面で戦い、その後、スマトラ、シンガポール方面に転戦。「鍾馗」に乗るようになると対B-29用の空戦技を独自に編み出して戦果をあげ、口径40mmでロケット弾を連続的に発射する、ホ301自動噴進砲を左右の主翼に装備した二式戦闘機「鍾馗」二型乙改装機でのB-29撃墜も記録している。
正確な記録が残されていないため確定はできないが、上坊の総撃墜機数は64機とも30機ともいわれる。
終戦時の最終階級は大尉。戦後は航空自衛隊に勤務し、2012年8月13日に96歳で逝去された。