軍神と謳われた撃墜王「加藤建夫」と一式戦闘機「隼」(中島キ43)
祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第8回
零戦とともに日本軍が誇る戦闘機であった一式戦闘機「隼」は、太平洋戦争初期から中期にかけ大活躍した。隼を駆使しエース・パイロットとなった加藤建夫(かとうたてお)の空戦史に迫る!

加藤建夫。1942年5月22日の空戦で戦死をとげると2階級特進で少将となり、生前すでに部下らに「軍神」と呼ばれていたが、これを陸軍が正式に称した。享年38。
中島飛行機は、傑作の誉れも高い九七式戦闘機を1937年に世に送り出した。本機は運動性に優れており、ドッグファイト(格闘戦)に強い戦闘機ながら固定脚だった。しかしこの頃には、すでにヨーロッパでイギリスがスーパーマリン・スピットファイア、ドイツがメッサーシュミットBf109という引込脚を備えた金属製単葉戦闘機を実用化していた。
日本陸軍もこの世界情勢を理解しており、引込脚を備える次期軽戦闘機キ43の開発を中島飛行機に命じた。1938年12月12日、キ43は初飛行に成功する。しかしドッグファイト能力は、前作の九七式戦闘機のほうが優れていた。その代わり速度は本機のほうが速かったので、改修を施して機動性の向上を図り、1941年4月に一式戦闘機として採用され「隼」の愛称が与えられた。
海軍の零戦と同馬力のエンジンを搭載したにもかかわらず、零戦に比べて「隼」の固定武装は貧弱で最高速度も遅かったが、零戦が防御力ゼロ(ただし初期型)だったのに対して、本機は最初から防漏燃料タンクやパイロット用防弾板を備えていた。とはいえ、主翼構造が脆弱だった初期型は空中分解事故を起こしたりしたが、これは速やかに改善された。
当時の最新鋭機として太平洋戦争の緒戦で大活躍し、日本での「隼」の名は、零戦と双璧を成すほどによく知られていた。だが元来が軽戦闘機として設計されたため、大戦中期以降はノースアメリカンP-51マスタング、スピットファイア後期型、リパブリックP-47サンダーボルト、グラマンF6Fヘルキャットといった大馬力、大火力、高速の連合軍戦闘機を相手に苦戦を強いられた。
しかし連合軍が“Oscar”のコードネームで呼んだ「隼」は、熟練パイロットが操縦桿を握るとしばしばこれらの強敵を撃墜しており、戦闘機としての素質の高さを見せている。
この「隼」を操った名パイロットが、飛行第64戦隊長の加藤建夫だ。1903年9月28日に北海道上川郡旭川村で生まれ、仙台陸軍幼年学校から陸軍士官学校へと進み、1925年、札幌歩兵第25連隊に少尉として赴任。しかし本人の希望で航空兵に転科し、技量優秀なパイロットとなって日中戦争に出陣。その後、太平洋戦争が勃発すると飛行第64戦隊(通称:加藤隼戦闘隊)を率い、当時最新鋭だった「隼」の操縦桿を自ら握って戦った。
しかし1942年5月22日、ベンガル湾上空でイギリス空軍第60中隊のブリストル・ブレニム爆撃機1機を「隼」5機で追撃中、加藤の乗機はブレニムの上部銃座の連射を受けて発火。海に突入して自爆をとげた。
加藤の総撃墜機数は18機以上といわれ、戦闘機隊指揮官としての優れた資質から生前より「軍神」と称えられた。この加藤隼戦闘隊の物語は戦中に映画化され、劇中歌でもその活躍が謳われている。

一式戦闘機一型「隼」。太平洋戦争の緒戦で大活躍した。操縦しやすい機体でパイロットたちの評価は高かったが武装が貧弱なのが弱点だった。