脱出生還3回! B -29撃墜王「小林照彦」と三式戦闘機「飛燕」(川崎キ61)
祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第4回
米軍から日本軍のメッサーシュミットとして恐れられた三式戦闘機「飛燕(ひえん)」。日本軍機には珍しい液冷エンジン搭載し、本土防衛戦で活躍した。「飛燕」に搭乗した日本陸軍パイロット・小林照彦(こばやしてるひこ)の戦歴に迫る!

愛機の前に佇む小林照彦。3度目の落下傘脱出時には右脚を負傷していたが、日本本土防空戦では、陸地に降下する限りほぼ生還できる強みがあった。
第二次大戦頃の航空機用エンジンは、大きく空冷と液冷の2種類に分けられる。このうち、航空機が受ける空気の流れでエンジンを冷却する空冷は、特別な冷却機構がなくてよいので製造は難しくないが、冷却のための空気の流れが抵抗を生み、それが速度を低下させる一因となった。
これに対して液冷は、冷却装置と冷却液で冷やすのでエンジンに直接冷却用の空気を当てる必要がなく、極力空気抵抗が生じないようにエンジン周りを絞り込んだ設計ができた。
しかし液冷エンジンは冷却装置も含めて構造が複雑で、設計と製造には相応の技術力が求められた。明治維新以降、急速に工業技術力を培ってきた日本は、航空関連技術も著しい速度で向上させてきたが、蓄積した技術力と高い工作精度が求められるエンジンや無線通信機器、航空機関銃などに関しては、列強に劣る部分も少なくなかった。
当時、ヨーロッパでは液冷エンジンの戦闘機が主流になっており、日本陸軍は、ドイツのダイムラーベンツ社が生み出してメッサーシュミットBf109に載せられたDB601液冷エンジンをライセンス生産し、川崎航空機で開発中の新しい戦闘機への搭載を試みることにした。
1939年、川崎はダイムラーベンツ社からDB601のライセンス生産権を購入。同時期、海軍もまたDB601を求めており、陸軍とは別個で、愛知航空機が改めて料金を支払って海軍のためのライセンス生産権を購入した。このとき、陸軍と海軍は互いの動きを事前に知っていた。にもかかわらず、わざわざ料金を別々に支払ってライセンス生産権を入手したのは、ひとえに陸軍と海軍の対抗意識が行わせたことだった。
陸軍も海軍も共に「日本の国軍」だ。ならば両軍が「お上」たる日本国政府に申請し、政府が国家としてダイムラーベンツ社から一括でライセンス生産権を購入。
「国の看板」で入手したライセンス生産権を用いて、両軍それぞれが必要とするDB601の数や納期を調整のうえ、同エンジンを生産できる技術力を備えたエンジン・メーカーを選んで造らせればよいだけだ。こうすれば、日本国内でたとえ複数のエンジン・メーカーがDB601をライセンス生産しようとも、同社との契約者は日本国政府一者で済むことになる。
歴史を「後知恵」的に断じてはならない。とはいえ、上に立つ「日本政府」と、その下の左右に並立する陸・海軍は、本来なら密接な関係でなければならない。常識的な「物事の順番の整理」と、わずかな情報の交換や共有すらできないということに加えて、当時の陸軍機と海軍機の航空機関銃や無線通信機器などの共用性のなさなどを傍証として、この事例は、まさに「同じ国の海軍と陸軍なのに互いを敵視している」といわれる逸話の明確な証拠のひとつといえるかも知れない。
こうして、DB601のライセンス生産型であるハ40を搭載した戦闘機を川崎は開発。三式戦闘機「飛燕」として1943年10月に採用された。本機は優れた戦闘機ながら、大きな弱点を抱えていた。従来の空冷エンジンの整備と取扱に慣れた整備兵には液冷のハ40は取扱にくく、おまけにデリケートな液冷エンジンの製造段階での材質不良や工作精度不良などの問題で、エンジンの整備や性能の維持が困難だったのだ。
それでも「飛燕」の整備に慣れた部隊では優れた戦果をあげており、アメリカ軍パイロットたちは「日本軍のメッサーシュミットもどき」を警戒していたという。連合軍から“Tony”のコードネームで呼ばれた本機は、対ボーイングB-29スーパーフォートレスが主体となった本土防空戦で一際活躍した。
日本を守るこの戦いで名をあげた名パイロットのひとりが小林照彦だ。1920年11月17日に東京で生まれ、陸軍士官学校に進む。卒業後は砲兵士官となったが、すぐに転科して航空兵となり、ウイングマークを得た。当初は軽爆撃機乗りだったが、1943年に戦闘機乗りとなった。
教官職などを歴任した後、1944年11月末に日本陸軍史上最年少の飛行戦隊長として、24歳で大尉だった小林は飛行第244戦隊に着任し、「飛燕」に乗って本土防空の任に就いた。そして体当たりによるB-29の1機を含む、計12機の撃墜を記録。しかも3回もの落下傘脱出を繰り返し、その都度生還している。
というのも、ひたすら特攻を指向していた海軍航空隊とは違って、陸軍では、貴重な熟練パイロットに可能な限り生還することを求めていたからだ。飛行機の代わりはいくらでも手配がつくが、腕利きパイロットは一朝一夕には育たないという現実を、陸軍航空隊上層部はよく理解していた。
少佐で終戦を迎えた小林は、戦後、航空自衛隊に3等空佐で入隊。F-86セイバー戦闘機などに乗る。しかし1957年6月4日、操縦するT-33練習機「若鷹」が離陸直後に墜落して殉職。2等空佐に特進した。享年36。

「飛燕」1型丙。飛行第244戦隊の本部小隊に所属する小林飛行戦隊長の乗機。