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義足の闘魂撃墜王「檜與平」と「五式戦闘機(川崎キ100)」

祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第3回


戦闘機同士の格闘戦、さらに一撃離脱戦でも高い技量を発揮した義足の日本陸軍パイロット・檜與平(ひのきよへい)。その異色の戦歴と、愛機・五式戦闘機に活躍に迫る!


 

「隼」に乗り込む檜與平。1991年に亡くなった。

 1930年代、世界の戦闘機の流行は液冷エンジンの搭載であった。その理由は、空冷星型エンジンとは異なり、液冷エンジンなら機首を細くできるので、高速化の「最大の敵」となっていた空気抵抗の減少が図れるからだ。しかしその一方、液冷エンジンは空冷エンジンに比べて構造が複雑かつ精密なので、工業力に劣る国にとっては、エンジンそのものの開発と生産がネックとなった。

 

 実は日本もその一国であった。世界の流行に乗って液冷エンジンを求めたが、当時の技術力では、一朝一夕に開発することなど無理だった。そこでドイツのダイムラーベンツDB601液冷エンジンを川崎航空機でハ40としてライセンス生産し、これを搭載した三式戦闘機「飛燕(ひえん)」が制式化された。ところが材料の品質の低さや加工技術の稚拙さなどが原因で、ハ40は信頼性に欠けるうえ、生産も遅延続きとなった。

 

 そのため、工場にはエンジンのない「首なし飛燕」が並んだ。そこで軍需省は194410月、この機体に高性能で知られた百式司令部偵察機に搭載されている空冷星型エンジンのハ112-IIを搭載するよう命じた。これを受けた「飛燕」の設計主務者土井武夫(どいたけお)は、急ぎエンジンを換装。

 

 飛行性能も強度も申し分ない「飛燕」の機体に、信頼性が高いハ112-IIを搭載したキ100(五式戦闘機)は、結果として優秀な戦闘機に仕上がった。しかも、既存の機体を改修してハ112-IIを積んだので、194412月末に設計変更が終わって翌年2月に初飛行し、同月中から生産が開始されるという早業だった。

 

 しかしそれでも、太平洋戦争末期に約400機弱が生産されたに過ぎない「応急生産機」的存在で、五式戦闘機という名称も、制式に命名されたものではなかった。だが性能に優れた扱いやすい本機は、現場部隊での評価がきわめて高かったという。

 

 この五式戦を駆使して戦った撃墜王のひとりが、檜與平である。太平洋戦争勃発時には、かの加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい)こと飛行第64戦隊に属して戦った。日本軍パイロットとして初めて、ノースアメリカンP-51マスタングを撃墜した人物とされる。格闘戦(ドッグファイト)にも一撃離脱戦(ヒット・アンド・アウェー)にも長じており、敵機の機種と自分の乗機の特性に合わせ、両者を使い分けて戦った。

 

 19431127日の空戦でP-51の銃撃を受けて右膝から10cm下を切断されたが、自ら止血して帰還。内地に戻って軽金属製の「恩賜の義足」を装着しリハビリに励み、194410月に明野(あけの)教導飛行師団飛行教官として復帰。そして同師団の実戦飛行隊で五式戦に乗り、本機の性能や実用性を高く評価。隻脚(せっきゃく)のハンデをものともせず、敵機撃墜を記録している。

 

 終戦時には少佐で、撃墜機数は12機(異説あり)とされる。

 

 なお、イギリス空軍では両脚義足の戦闘機パイロットであるダグラス・バーダー、また、ドイツ空軍では右足が義足の対地攻撃の達人パイロットであるハンス・ルーデルが、それぞれ著名である。

飛行第5戦隊に所属する五式戦一型。地上姿勢でこそかろうじて区別できるが、空中でのシルエットは「隼」や「疾風」に酷似しており、そのせいでアメリカ軍パイロットが空戦において本機を明確に識別できることはほとんどなかったと伝えられる。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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