B-29撃墜の達人「樫出勇」と二式複座戦闘機「屠龍」(川崎キ45改)
祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第1回
太平洋戦争で活躍した日本軍パイロットたちの実像に迫る! 第一弾は複座戦闘機「屠龍」(とりゅう)を駆使しB-29撃墜の達人と称された陸軍航空隊・樫出勇(かしいでいさむ)大尉。

飛行装備に身をかためた樫出勇。最終階級は大尉であった。2004年に亡くなられた。
敵の戦闘機と戦ったり、敵の爆撃機を迎撃したりする戦闘機には、高速と敏捷な運動性が求められる。そのため戦闘機の基本的な形態として、単発単座というのが1930年代後半には確立されていた。
これに対して同時期に、若干の運動性能を犠牲にしても単発戦闘機より大火力を備え、運動性能に劣る弱点をより速い速度で補い、さらに機体を大型化して燃料搭載量を多くすることで、爆撃機と同程度の長距離飛行が可能な戦闘機が、世界の空軍で模索されるようになった。
そしてこの要求への回答が、大馬力エンジンを2基搭載した軽量の双発戦闘機となったのは、やはり世界の空軍において同様であった。
双発戦闘機は、確かに運動性能では単発戦闘機に劣る。しかし当時、従来の格闘戦(ドッグファイト)に代わる新しい空戦術として一撃離脱(ヒット・アンド・アウェー)という戦い方が発案され、エンジン馬力が大きい双発の高速機なら、この空戦術で単発戦闘機と伍して戦えるのではないかと考えられた。
このような理由から、双発戦闘機はアメリカのロッキードP-38ライトニング、イギリスのブリストル・ボーファイター、ドイツのメッサーシュミットBf110などが造られており、日本陸軍もそれを求めていた。
そこで川崎航空機へ開発を発注したが、エンジンの出力不足や設計上の問題などから、開発は進まなかった。だが試行錯誤の末に設計を改め、信頼できるエンジンを搭載したキ
45改が完成。太平洋戦争勃発後の1942年2月、二式複座戦闘機として制式化された。
しかし、二式複戦と略称された本機は、やはり単発戦闘機の敵ではなかった。それでも戦闘機として戦えるよう設計された軽快な機体だったので、対地攻撃には優秀な成績を示し、地上襲撃機として好評を得た。
ところが、アメリカが開発した当時としては「時代を超えた」最新式の重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスが日本本土を空襲するようになると、二式複戦は単発戦闘機よりも重武装でより高空まで上昇できたため、B-29の迎撃に有効な機体だと判明。そして、フィリピンでの戦功で送られた感状に記された文言にちなんで、「屠龍」の愛称を与えられた。
優秀なB-29は「屠龍」よりも高高度まで上昇可能で速度も速かった。そのため、「屠龍」は追撃はできなかった。そこで、B-29が通過すると思われる空域で先に上昇しておき、B-29が現れたら一撃をしかけて離脱する戦法が主流となった。
この一撃でB-29を撃墜できればよいが、もし撃墜できなかった場合は、再び上昇して別のB-29の出現を待ち、改めて一撃を加えることになる。
飛行第4戦隊に所属して「屠龍」を飛ばしていた樫出勇は、この対B-29迎撃戦のエキスパートで、終戦までに九州方面に飛来した同機26機を撃墜し、「B-29撃墜の達人」と評されていた。もっともこの撃墜機数は日本側の記録であり、撃墜確認用のガンカメラを個機に搭載していなかった日本軍の場合、撃墜機数が過大になる傾向があるため、実際にはもう少し少なかったかも知れない。しかしそれにしても、かなりの撃墜数といえる。
樫出は1915年に新潟で生まれ、1934年に陸軍少年飛行兵の第1期生となる。そして1939年9月、ソ連軍との間で生じたノモンハン航空戦に参加。1940年になると飛行第4戦隊に転属し、双発の「屠龍」を乗機とするようになった。
ところが、硫黄島が陥落して1945年4月7日から同島を発進したノースアメリカンP-51マスタング戦闘機がB-29の護衛に付くようになると、単発戦闘機との空戦を苦手とする双発の「屠龍」は苦戦を強いられることとなり、やがて終戦を迎えた。
しかし樫出は、撃墜記録を増やしながら熾烈な本土防空戦を生き延びたのだった。

飛行第53戦隊の震天制空隊に所属する「屠龍」。震天制空隊とはB-29に空対空体当たり攻撃を加えるための特別攻撃隊だったが、パイロットは可能な限り生還を求められた。