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日本の小型潜水艇「蛟龍」~深海の小さな殺し屋~

主力艦隊の補助から特攻までを担った「日本海軍の名脇役たち」 第2回


太平洋戦争末期、コストをかけずに大量の潜水艦を装備するため、小型の潜水艇が開発された。その名は「蛟龍」(こうりょう)。秘められた開発、運用、その戦歴に迫る!


 

終戦時、呉のドックに建造途中で放置された「蛟龍」群。安く簡単に建造できる「蛟龍」は、本土決戦への投入なども考えて計画的に生産が進められていた。

 

 戦力化された小型潜航艇「甲標的(こうひょうてき)」は、主に敵の港湾に潜入して戦果を得たが、努力や犠牲に比べてそれはあまりに少なかった。また、小型で航続距離がごく短い「甲標的」を目的地まで運搬するには、甲標的母艦や潜水艦を改造した母艦が不可欠だった。

 

 その後、戦争の進捗にともなって日本は守勢に回らざるを得ず、兵器の生産も低価格で簡易に造れるものが主体となって行く。このような流れの中で、小型潜水艇なら通常の潜水艦を造るよりも早く、安く、簡単に造れるとの判断が下された。しかし、既存の甲標的では、その運用例が示すように運用の手間がかかりすぎ、ますます悪化を続ける戦況に適してはいなかった。

 

 そこで「甲標的」をベースにした新しい小型潜水艇の設計と開発が開始された。

 

 甲標的丁型と命名されたこの新しい小型潜水艇は、魚雷の搭載数こそ甲標的と同じ2本だったものの、艇体の大型化が図られていた。その目的は、従来のような母船を使用せずに日本近海での作戦に向けて本土の基地から出撃し、自力で目的海域に到達するためだった。ゆえに約5日間の行動が可能で、乗組員も甲標的の2名から5名へと増加。しかもそのうちの1名は専属の通信員で、本部や母艦と無線通信手段を持たない「行ってこい」の甲標的とは異なり、潜水艦としての最低限の双方向通信が可能となっていた。

 

 しかし、5日間の行動が可能とはいうものの、乗組員のための休息設備などは皆無だったため、現実には体力が保てる3日程度が運用の限界だった。

 

 性能面では、旋回半径が大きく小回りの利かない甲標的に比べて、その半分ほどの旋回半径で方向転換が可能で、大型化した分、潜望鏡深度での波の影響も小さくなったが、それでも時化気味の外洋の大きなうねりに巻かれると、浮上または浅深度では航行に支障をきたした。

 

 つまり「早く、安く、簡単」に造れる小型潜水艇は、造る側にとっては魅力的な兵器ながら、当時のテクノロジーでは用兵側の要求に応えられるだけの性能のものが建造できなかったというのが、この甲標的丁型も含む、当時の世界の多くの小型潜水艇の現実だったといえよう。

 

 しかしそれでも、甲標的丁型はやがて「蛟龍」の名称を与えられた。これは、小型潜水艇を運用する部隊名が蛟龍隊だったことからのフィードバックによるネーミングである。

 

 戦争末期の敗色濃い中、「蛟龍」はわずかに沖縄戦に参加した程度に過ぎなかったが、1隻は日本本土から自力で沖縄まで進出し、甲標的との航行力の違いを示した。しかし実戦での戦果は皆無(駆逐艦1隻撃沈という説もあり)に近かった。

 

 なお、「蛟龍」は終戦までに115隻が完成していたと伝えられる。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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