日本の小型潜水艇「甲標的」~日本海軍の名脇役たち~
主力艦隊の補助から特攻までを担った「深海の小さな殺し屋」 第1回
太平洋戦争では戦艦、空母だけでなく、多種多様な艦船、艦艇が過酷な海の戦いに貢献した。日本海軍の名脇役たちをここに紹介する。

1941年12月8日の真珠湾攻撃の後、オアフ島の海岸に漂着した甲標的。結局、出撃した5艇はいずれも未帰還となり戦果もなく、うち1艇の艇長だった酒巻和男少尉は、太平洋戦争における日本人初の捕虜となった
第一次世界大戦後に締結されたワシントン、ロンドンの両海軍軍縮条約により、日本は主力艦(戦艦)だけでなく空母や巡洋艦の保有隻数までを、アメリカやイギリスよりも少なく設定されてしまった。しかし当時の日本海軍は、アメリカ西海岸からハワイを経由して極東に来寇するアメリカ太平洋艦隊を、逐次迎撃して弱らせてから、こちらの主力艦隊で叩いて撃滅する漸減邀撃(ぜんげんようげき)にこだわっていた。
この漸減邀撃は当初、条約では保有数を制限されていない陸上基地発進の双発攻撃機(中攻)を用いて、極東に迫りつつあるアメリカ艦隊を文字通り「漸減」させ、主力艦の数が減ったところで、こちらの主力艦隊をぶつけて撃滅することが考えていた。しかし中攻だけでなく、小型潜航艇にも「漸減」の役割を担わせることになった。
具体的には、来寇する敵艦隊の進路上に小型潜航艇母艦から発進した多数の小型潜航艇が展開し、隠密裏に接近して雷撃を加えることで、敵の主力艦を沈めようと考えられた。
こうして、乗員2名、魚雷2本を搭載した小型潜航艇が「甲標的」(こうひょうてき)の秘匿名称で開発された。なぜ甲標的なのかといえば、秘匿のための偽装が「演習時の特殊標的」というものだったからだ。
当時の日本の小型潜航艇関連技術は世界的にも進んでおり、水上航行と潜航するだけの艇なら容易に建造できた。だが攻撃目的で魚雷を搭載するとなると、途端に難題が増えてしまう。
普通の潜水艦であれば、魚雷を数本発射したところで浮力やバラストに余裕があるためバランスを崩すことはない。だが小型潜航艇に比べて大きな魚雷を発射したら、急に浮力が大きくなって艇体が水面から飛び出してしまいかねない。当時の技術に鑑みると「小さいから造りやすい」のではなく「小さいからこそ難題が潜んでいる」というわけだ。
実物の甲標的が完成して運用してみると、艇体が小さく安定性にも限度があるため、漸減邀撃に向けて運用が予定されている外洋では、やや海が荒れると潜望鏡深度では司令塔が海上に飛び出しやすかった。しかも装備された潜望鏡の特眼鏡は、高さが不足で視界も狭く、索敵が難しかった。
それでも漸減邀撃に向けて、水上機母艦兼甲標的母艦兼輸送艦として運用でき、最終的には空母への改装も視野に入れていた千歳型水上機母艦が建造され、実際に同型の2番艦千代田は甲標的母艦に改修された。だがやはり甲標的の外洋での運用は難しく、また、漸減邀撃思想も衰退。そこで甲標的の任務に、敵の港湾に潜入して停泊中の敵艦を襲撃することも加えられた。
だが、外洋での作戦行動を念頭に設計された甲標的は構造上小回りが苦手で、港湾のような狭海面での運用には不向きだった。それだけが理由ではないが、1941年12月8日の真珠湾奇襲には、艦上機の攻撃と連動して5隻の甲標的が初陣を飾ったものの、全艇が任務を全うできずに戦没してしまった。
しかしその後も改良が施され、オーストラリアのシドニー港攻撃や、マダガスカル島のディエゴ・スアレス港攻撃、ガダルカナル島のルンガ泊地攻撃などでは戦果を得ている。また、戦争後期にはフィリピンのセブ島に基地を設けて、同地の沿岸作戦にも従事した。