人命を無視した生還皆無の必死兵器・人間魚雷「回天」
主力艦隊の補助から特攻までを担った「日本海軍の名脇役たち」 第4回
戦局の悪化とともに登場した人間魚雷「回転(かいてん)」。小型潜水艦を利用した特攻兵器誕生の背景、開発、性能、戦果を解き明かす。

回天を搭載して出撃する伊号潜水艦。潜水艦によって2本から6本の回天を甲板上に搭載できた。初期には一度浮上して搭乗員を回天へと移乗させたが、後には連絡筒を伝って潜水艦内から回天に直接乗り込むことができるようになった。
日本海軍における小型潜水艇の本格的な軍事運用は、甲標的が嚆矢(こうし)となったといってもよい。その甲標的部隊では、同艇の不完全な機能では対応が難しい運用要求とも相まって、当初から生還を考えない「片道出撃」の思想が根強かった。つまりそれだけ現場の隊員たちの戦意が高かったのである。
このような事情を背景として、すでに1942年の中頃には、小型潜水艇部隊内において、生還を期さない「特攻」の考え方が認知されていたといえる。
そして1943年になると、小型潜水艇部隊の少壮士官たちの間で自発的に特攻兵器が考えられるようになり、その最先鋒が人間魚雷であった。
当時の日本海軍は、世界屈指の高速と長射程、さらには雷跡が水中に残らないため敵に発見されにくい、酸素を利用した九三式酸素魚雷を世界に先駆けて運用していた。だが当時の魚雷は誘導兵器ではなかったので、命中精度の向上には自ずと限界があった。
この点、Uボートの運用国であるドイツは、酸素魚雷ではないが音響を追尾してホーミングする誘導魚雷を逸早(いちはや)く実用化していた。だが日本の技術では、それは困難だった。そこで考え出されたのが「日本式誘導魚雷」である。端的に言ってしまえば、テクノロジーで誘導装置が開発できない日本の弱点を、「人間」を誘導装置にして解決しようという発想である。
こうして、九三式酸素魚雷を改造して人間が操縦できるようにしたものが、㊅(マルろく)金物の秘匿名称で開発が進められ、やがて回天と命名された。そのため「人間魚雷回天」などと呼ばれることもある。
生還を期さない「使い捨て」というか「一度のみ使用」の兵器なので、最低限のコストと手間で造れるように考えられており、約400本以上が生産されたと伝えられる。航続距離がきわめて短いため、母艦となる潜水艦から発進して、敵の艦船に対し体当たりする。
回天がいかに急造の兵器だったかの証拠が、運用訓練中の死者数に表れている。総数約1400名が1人乗りの回天の搭乗員としての訓練を受けたが、訓練中に15名もの死者を出したと伝えられる。また、実際に回天に乗って発進し戦死した者は49名とされる。回天の母艦となった潜水艦も、8隻が敵によって沈められた。
一方、回天があげた戦果は、タンカー、護衛駆逐艦、歩兵揚陸艇を各1隻撃沈し、輸送船3隻、護衛駆逐艦1隻に損傷を与えたにすぎない。
だがアメリカ側は回天を過大評価し、大変恐れていたと伝えられる。