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冴える一撃離脱戦法「赤松貞明」と「雷電」(三菱 J2M)

祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第2回


太平洋戦争で活躍した日本軍パイロットたちの実像に迫る! 第2弾は局地戦闘機「雷電(らいでん)」に搭乗した赤松貞明(あかまつさだあき)中尉。日本軍パイロットには珍しい一撃離脱戦法を駆使し、米軍爆撃機の迎撃に活躍した。


 

太平洋戦争末期に撮られた赤松貞明。戦友からは「松ちゃん」の愛称で親しまれた。最終階級は中尉であった。1980年に亡くなられた。

 日本海軍航空隊は、太平洋戦争開戦前には日中戦争で戦った。そして中国に航空基地を設けて進出していたが、時に中華民国空軍の爆撃隊に爆撃されて被害が生じた。

 

 この出来事は、海軍航空隊とて空母からだけでなく陸上基地からも出撃するので、艦上機ではなく陸上基地で運用する地域防衛用の戦闘機の必要性を痛感させることになった。そこで海軍は、このような局地の防空に適した、いわゆる局地戦闘機の開発を三菱重工業に要請する。

 

 三菱はこの要請に基づき、九六式艦上戦闘機や零戦などを設計した日本航空機設計界の鬼才・堀越二郎(ほりこしじろう)を設計主務者に任命。その開発に着手した。

 

 今回、三菱が設計しなければならない地域防空と飛来した敵爆撃機の迎撃を主任務とする局地戦闘機には、来襲しつつある敵機を逸早く迎撃するための優れた上昇性能、敵爆撃機の追撃を可能とするための高速性能、大型の爆撃機を撃墜するための大火力などが必要となる。

 

 ところがその頃の日本には、戦闘機への搭載に適した小型軽量の大馬力エンジンが存在しなかった。そこでやむを得ず、大型機向けの火星シリーズのエンジンが搭載されることになった。だが火星は空冷星型でエンジンの直径が大きかったので、空気抵抗を可能な限り低減させるべく、先端をきつく絞り込んだカウリングが採用された。

 

 雷電と命名されたこの局地戦闘機の試作機は、194210月に初飛行に成功。要求性能はほぼ達成したものの、エンジンを最大出力で運転すると激しい振動が生じるという致命的な欠陥が見つかった。この欠陥の解決には時間がかかり、19439月になって、制式採用前にもかかわらず量産が開始された。

 

 だが実戦部隊に配備されると、今度はエンジン出力の不足と電気系統の不具合といった初期不良に見舞われ、後に改善はなされたものの、最後まで根本的な解決とはならなかった。

 

 運動性能に優れた零戦に乗り慣れたパイロットには、大型エンジンが原因で着陸時の前方視界が悪く着陸速度も速い雷電は、乗り換え直後には操縦しにくい機体で、事故も多かった。だが雷電の特徴を把握できたパイロットは、本機の良好な加速性能と急降下性能を武器に、欧米の戦闘機が行っていた一撃離脱(ヒット・アンド・アウェー)戦法で撃墜を重ねる者もいた。

 

 連合軍から“Jack”のコードネームで呼ばれたこの雷電を熟知したパイロットのひとりが、赤松貞明である。1910730日に高知県香美郡赤岡町で生まれ、1928年に4等水兵として佐世保海兵団に入隊。1930年に第17期操縦練習生となり、1932年に卒業すると大村航空隊から空母勤務を経て、1934年に精鋭の横須賀海軍航空隊へと配属され、腕に磨きをかけた。

 

 そして日中戦争で戦歴を重ね、太平洋戦争では後期まで南方の激戦地を転戦。1944年に帰国すると、本土防空のために新しく編成された第302航空隊に配属され、最初は零戦、後には零戦と雷電の両方に乗った。

 

 赤松は、零戦が得意とした格闘戦(ドッグファイト)にも長じていたが、一撃離脱に向く雷電の特徴を活用して、日本本土に飛来するノースアメリカンP-51マスタングやグラマンF6Fヘルキャットを撃墜している。

 

 終戦時の階級は中尉。撃墜機数は日中戦争で11機、太平洋戦争で27機とされるが異説もある。一方で、自身は1度も撃墜されたことがない。

雷電二一型の試作機。零戦のスマートさとは正反対の胴太で寸詰まりの機体だが、性能的に一撃離脱戦法には適していた。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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