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“大空のサムライ”と呼ばれた撃墜王「坂井三郎」と「零式艦上戦闘機」(A6Mシリーズ前期型)

祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第5回


日本海軍が誇る撃墜王として名を馳せた坂井三郎(さかいさぶろう)。その戦歴とともに愛機・零戦の開発秘話、兵器としての栄枯盛衰を明かす。


 

飛行服に身を包んだ坂井三郎。最終階級は中尉。写真は漢口飛行場で撮影されたもの。2000年9月22日に84歳で永眠された。

 太平洋戦争勃発前の時点で、すでに世界的傑作機と謳(うた)われた九六式艦上戦闘機を手掌中にしていた日本海軍は、その後継となる同様の高性能艦上戦闘機の開発に着手した。これが一二試艦上戦闘機(後の零戦)で、1937年に三菱航空機と中島飛行機の両社に試作が要請された。

 

 ところが九六式艦戦よりもさらに高レベルとなった海軍の要求のせいで、中島は途中で辞退してしまう。片や三菱でも、先に九六式艦戦を手がけた鬼才・堀越二郎(ほりこしじろう)をはじめとする設計陣ですら、さらに高くなった要求性能のハードルに頭を悩ませた。

 

 しかしそれでも、再び堀越が主務者となって設計が始まった。海軍の要求は、軽快な運動性と優れた速度性能、長い航続距離、重武装というもので、この全てを満たすためには何かを犠牲にしなければならないと堀越が申告すると、海軍側は防御能力をそれにあてた。つまり防弾関連の重量を大きく削減することで、それ以外の要求を実現するという方法が選ばれたのだ。

 

 加えて、零戦の重量削減策としてつとに知られるのが、機体各部のフレームに多数の孔を開けるという生産工程上の手間をかけて、強度を損なうことなく材料の中抜きを行い、その分の重量を浮かせたというエピソードである。

 

 また、当時としては大口径で威力のある20mm機関銃を搭載したが、同じく搭載していた7.7mm機関銃と弾道特性が異なるため、この両方を巧みに使うには、パイロットに相応の射撃の腕が求められた。

 

 193941日、試作1号機の初飛行が成功して、翌407月に零式艦上戦闘機一一型の名称で制式採用。そして、同年中に中国での実戦に参加して驚異的な性能を発揮し、中国機を次々と撃墜した。この実戦初参加時の感想として、運用部隊から防弾の要望も一部出されたが、圧倒的な高性能による勝ち戦だったことで立ち消えになってしまった。

 

 やがて太平洋戦争が始まると、零戦の主力は二一型となっていた。同時期のアメリカのカーチスP-40トマホークやグラマンF4Fワイルドキャット、イギリスのホーカー・ハリケーンやスーパーマリン・スピットファイア初期型といった第一線機は、日本の熟練パイロットが操る零戦によってたやすく撃墜された。その結果、実はそれまで日本は航空技術後進国と思い込んでいたアメリカやイギリスのパイロットと航空機メーカーは、まるで太刀打ちできない「ゼロファイターの脅威」という現実の前に、対抗策を講じるべく急遽研究を進めた。

 

 中国での実戦を経験したのみならず、厳しい訓練を重ねて腕を磨いてきた日本のパイロットの技量は、まさに神業にも例えられるほどで、連合軍パイロットにとって、そんな日本人パイロットが操る零戦は恐怖の的であった。

 

 そのようなパイロットの中に、坂井三郎もいた。1916826日、佐賀県佐賀郡西予賀村で生まれ、父親の逝去で一時は東京で学ぶが、帰郷し農業に従事。1933年、海軍に志願して戦艦「霧島」に勤務する。その後、志願して操縦練習生となり成績優秀で卒業。

 

 日中戦争で九六式艦戦に乗って実戦に初参加し、初撃墜を記録した。1941年に台湾で新設された台南航空隊に配属され、空戦技術の指導などを行った。

 

 194287日、ラバウルからガダルカナル島への長距離作戦飛行で重傷を負いながらも、4時間半もの飛行を続けてラバウルに帰還。この負傷で右目の視力を失い帰国し、傷の回復後に教官となる。しかし19446月、横須賀航空隊の一員として硫黄島に進出。右目の視力に欠けたまま実戦に参加した。

 

世界的ベストセラー『大空のサムライ』を著したことから「大空のサムライ」とも称される。公認の撃墜機数は28機。

 

 しかし連合軍側も、強敵「ゼロ」の不時着した機体を詳細にテストするなど徹底的に調査して弱点を調べ上げ、それを味方のパイロットたちに周知させた。さらに零戦よりも大馬力のエンジンを積んだ強力なグラマンF6FヘルキャットやロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルトやスピットファイア出力向上型を戦力化。大戦中期になると、これに日本のベテラン・パイロットが多数戦死したことも重なって、零戦の優位も大きく揺らぐようになった。

 

 このような流れの中で、速度の向上と生産の容易化を図るため主翼端を角型にした零戦32型の生産が開始されたが、実戦部隊では航続力が短くなったこの改修は嫌われ、結局、主翼端は後のモデルで元の丸型に戻された。

 

 かくして零戦の衰退が続く中、日本側もその対策に躍起となっていたのである。

坂井がまるで身体の一部のごとく扱った零戦二一型。同機は元来が艦上戦闘機で、写真は空母「翔鶴」から発艦するシーン。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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