「空戦の神様」と呼ばれた撃墜王・杉田庄一と「紫電改」(川西N1K2-J)
祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第11回
日本軍戦闘機が苦戦したF6Fヘルキャットなどアメリカ軍戦闘機と互角以上に渡り合えた「紫電改(しでんかい)」。日本本土防空戦で大活躍した同機の秘密と、エースパイロット杉田庄一(すぎたしょういち)の戦歴に迫る!

第343海軍航空隊時代の杉田庄一。享年20。最終階級は少尉。戦友や部下から「空戦の神様」と呼ばれた。
日本海軍は、主に南方の飛行場が造成できない島嶼部(とうしょぶ)で運用する目的で、水上戦闘機を求めた。そこで飛行艇や水上機に強い川西航空機に開発を命じたが、それが遅延したせいで、零戦(ぜろせん)をベースにした二式水上戦闘機が開発された。遅れて川西も水上戦闘機「強風(きょうふう)」を完成させたが、前者が優秀だったので「強風」はわずか97機しか生産されなかった。
不本意だった川西は1941年12月末、「強風」に引込脚を備えた陸上局地戦闘機に改修する計画を海軍に提出。当時、海軍では新型機「雷電(らいでん)」の初期不良の調整に加えて、零戦の後継機について混乱が生じており、既存の「強風」からの改修で容易に実用化できると思われたこの計画を承認した。
ところが川西は、飛行艇や水上機のメーカーとしては優れていたが単発単座戦闘機には経験が浅く、海軍内部には計画を懸念する技官もいた。そのため審査の席が設けられ、結果、計画に実施の許可が下されている。
できるだけ速く実用化するため「強風」の設計を極力流用することになっていたが、エンジンを「火星(かせい)」からさらに高出力の「誉(ほまれ)」に換装したことなどで各部に設計の変更が生じ、外観こそ似ているが別の機体といえるほど手が加えられた。ただし水上機の「強風」譲りの中翼配置は変わらず、ゆえに長い主脚が取り付けられた。
これが「紫電(しでん)」11型で、略して「紫電」と呼ばれた。だが同機は自動空戦フラップや引込脚の不調、さらに「誉」の不具合のせいで、実戦部隊での評価は低かった。しかし「磨けば光る」優れた点もあったので、川西はさらに手を加えることにした。
元になった水上機の「強風」に由来する中翼配置を零戦のような低翼配置に改め、直径の大きな「誉」に合わせて胴体のデザインや各翼の位置を修正。自動空戦フラップの信頼性を向上させ、さらに、逼迫する戦況に対応すべく生産性向上と原材料節約の観点から、「紫電」よりも全体的な簡略を加えた「紫電」21型が開発され、「紫電改」と呼ばれることになった。
「紫電改」は優秀な戦闘機に仕上がり、パイロットに相応の腕があれば、零戦や「雷電」では苦戦を強いられたグラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、ノースアメリカンP-51マスタングといった強力なアメリカ製戦闘機と互角に戦えた。特に本機を優先配備された第343海軍航空隊は、日本本土防空戦で大活躍している。なお、連合軍は本機を“George”のコードネームで呼んだ。
この「紫電改」で戦ったエースパイロットのひとりに杉田庄一がいる。1924年に新潟県で生まれ、太平洋戦争開戦の年の1941年2月、予科練に入隊。1942年に実戦部隊へと送り出された。ラバウルの第204海軍航空隊時代、訓練中に遭遇したボーイングB-17フライングフォートレスを体当たりで撃墜。これが同航空隊によるB-17初撃墜となった。
杉田はまた、1943年4月18日に撃墜されて戦死した、山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官が搭乗した一式陸攻の護衛に任じた零戦6機のうちの1機の操縦桿(そうじゅんかん)を握っていた。
負傷して帰国したが、傷が癒えると再び南方で戦う。その後、再び帰国して第343海軍航空隊に配属され、「紫電改」の操縦桿を握ることになった。女子高生から贈られた愛用の紫色のマフラーには、本人の名前と共にキャッチフレーズの「ニッコリ笑へばかならず墜とす(当時の表記ママ)」の刺繍(ししゅう)が施されていたという。
空戦技の指導がきわめて上手で、後輩たちに丁寧に教えるので人気が高かった。初期からの日本戦闘機パイロットには珍しく、編隊空戦を重視していた。
1945年4月15日、鹿屋(かのや)基地でスクランブル発進の滑走中、グラマンF6Fヘルキャットに襲われて墜落し戦死。総撃墜機数には諸説があるが、70機とも120機ともいわれる。

「紫電改」。戦争末期の日本本土防空戦で活躍したが、登場時期が遅かったのがなんとも悔やまれる。