栄光の御召艦から大和型テスト艦・金剛型2番艦「比叡」の最後の死闘
日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第2回】
空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第2回は、海軍軍縮条約の制約で練習戦艦となったが御召艦の栄誉を戴き、後には最新装備のテスト艦となった「比叡(ひえい)」である。

ロンドン海軍軍縮条約満了後の改修を終えた「比叡」。
日本海軍は、イギリス海軍に範を求めて近代化を進めてきたが、同国最新の建艦技術を学ぶべく、超ド級巡洋戦艦である金剛型の1番艦となる金剛(こんごう)をヴィッカース社に発注。その同型艦を日本国内で建造することにした。
そして金剛型2番艦となる比叡は、1911年11月4日に横須賀海軍工廠(かいぐんこうしょう)で起工されたが、これは金剛の起工から約10か月後のことだった。進水式は1912年11月21日に挙行され、大正天皇が臨席している。竣工は1914年8月4日。
1923年の関東大震災に際しては、俊足を活かして救援物資の輸送に従事した。1927年7月には、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王少尉が配属され、同年12月、中尉に昇進し離艦されている。
1922年に始まった一連の海軍軍縮条約のうち、1930年のロンドン海軍軍縮条約により、比叡は第一線の戦艦を外され練習戦艦へと改造されることになった。そして4番主砲塔と舷側(げんそく)装甲板の撤去、機関の規模縮小が施され、煙突が1本減るなど外観もやや変化した。とはいえ、舷側装甲板などはいずれ戦艦に戻すことを考慮して保管に回されている。
練習戦艦への類別の変更は1933年だったが、この改造の直後には、横須賀海軍工廠で昭和天皇の御召艦(おめしかん)としての改修が加えられている。練習戦艦は、戦艦の威容を保ちつつも艦隊に属さないので、天皇の行動に対応しやすいことが改修の理由であった。
御召艦としての主な動きとしては、1933年の横浜沖大演習観艦式、1936年の神戸沖特別大演習観艦式、1940年の紀元二千六百年特別観艦式と3回の観艦式に参加。他に1935年の宮崎・鹿児島行幸(ぎょうこう)時の御召艦と、同年の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)満州国皇帝の訪日に際しての御召艦も務めた。また1936年の2・26事件時には、事態悪化の折には昭和天皇に比叡に乗艦いただくという方策も考えられていた。
同型艦の金剛、榛名(はるな)、霧島(きりしま)は逐次の改修を施されていたが、練習戦艦化された比叡はその機会がなかった。しかし1936年の海軍軍縮条約満了にともない、同年11月から、戦艦へと復帰させる改修が開始された。この改修に際して、本艦は先に改修されていた他の同型艦とは異なり、大和型戦艦に導入される新技術が盛り込まれ、そのテストに用いられた。
具体的には艦橋のデザイン、射撃方位盤の装置とその配置、主砲塔旋回用水圧ポンプ、火薬庫冷却装置、応急注排水装置、急速注排水装置など、大和型への採用が予定されているものが先行テスト用として比叡に搭載された。にもかかわらず、比叡の類別は後に戦没するまで練習戦艦のままであった。
太平洋戦争が勃発すると、出自たる巡洋戦艦の快速を活かして空母機動部隊の掩護などに活躍。そして1942年11月12日から13日に戦われた第3次ソロモン海戦第1夜戦で、運命の時を迎える。日本海軍は約ひと月前の10月、ガダルカナル島のヘンダーソン航空基地に艦砲射撃を加えて高速で離脱するという奇襲艦砲射撃に成功し、今回もその再来を狙って俊足の比叡を送り込んだ。
ところがアメリカの複数の巡洋艦と駆逐艦に迎撃されて損傷を蒙り、操舵が不自由な状態となる。比叡は復旧に努めたが、13日の夜が明けるとアメリカ軍航空機の攻撃を受けて損害が蓄積。結局、復旧はかなわず総員退艦の後に、注水弁を開放して自沈したのだった。
死闘を戦ったにしては、約1200名の乗組員中、戦死約190名、戦傷約150名で済んだのは、総員退艦の時期の判断が適切だったことなども影響している。