老銘艦、台湾海峡に没す ~ 金剛型1番艦「金剛」
日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第1回】
空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海(そうかい)を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第1回は、日本がイギリスに発注した最後の戦艦となった「金剛/こんごう」である。

館山湾を航行中の金剛。1936年の撮影。
明治維新以降、日本は近代海軍を構築するにあたってイギリスに範を求めた。そのため、当時の日本では建造できなかった軍艦を同国に発注するとともに、設計と建造のためのノウハウも同国から学んだ。
その師たるイギリス海軍は、1906年にドレッドノートという画期的な戦艦を開発。続いて1908年、同艦と同様の戦闘能力を持ちながらも、船足が速い巡洋戦艦インヴィンシブルを就役させた。
特に巡洋戦艦は、装甲巡洋艦を発展させて生み出された、戦艦と同格の主砲を備えながらも巡洋艦並みの高速を発揮できる艦種で、イギリスが発祥の地であった。
同時期、日本海軍は保有する主力艦や準主力艦が急速に陳腐化する流れの中で、画期的なドレッドノートを凌駕する、いわゆる超ド級戦艦に目を向けた。そこで国産の巡洋戦艦の設計を中止。そしてイギリスの最新の建艦技術を学ぶべく、超ド級の巡洋戦艦であるライオン級を理想に置いた巡洋戦艦を同国のヴィッカース社に発注し、その艦を参考にして国産化を図ることになった。
当時ヴィッカース社では、オスマン帝国海軍から受注した戦艦レシャド5世(のちイギリス海軍が取得しエリンとなる)の建造が進められていたが、同艦を手がけた同社の主任軍艦設計技師ジョージ・サーストンは、日本から受注した超ド級巡洋戦艦を設計するに際して、この戦艦をベースにしたという。
金剛と命名された巡洋戦艦は、ヴィッカース社バロー造船所で建造され、1913年8月16日に竣工した。以降、何度かの改修をへて1941年12月の太平洋戦争勃発時は、艦齢20年を越える旧式艦ながら30ノットの快速を誇った。
戦間期の1923年には、皇太子御召艦(おめしかん)として台湾を行啓(ぎょうけい)。翌24年にも、同じく皇太子御召艦となっている。
旧式艦ながら金剛型は日本の戦艦の中で最も速かったため、高速の空母機動部隊の直掩艦(ちょくえんかん)として引っ張りだこになった。
また、その高速を生かして激戦が続くガダルカナル島のヘンダーソン航空基地争奪戦において、1942年10月13日に同島に接近し同航空基地に艦砲射撃を加え、その後に高速で離脱するという奇襲艦砲射撃に成功している。
1944年10月23日から25日にかけて戦われた複合海戦のレイテ沖海戦では、サマール島沖海戦で駆逐艦1隻と護衛空母1隻の撃沈に関与したとされる戦果をあげている。
1944年11月21日、南方を転戦の後に日本への帰還の途中、台湾沖の基隆の北の海域で、アメリカ潜水艦シーライオンに雷撃されて左舷(さげん)側に2本を被雷。当の金剛そして同行した各艦でも、まさか魚雷2本の命中ごときで沈むとは思っていなかったが、高齢艦で各部の老朽化のせいで予想外に浸水が多く、被雷後約2時間で転覆し沈没。まさかの沈没だったため総員退艦の発令が遅れ、艦長島崎利雄(しまざきとしお)大佐と座乗していた第3戦隊司令官鈴木義尾提督(すずきよしお ていとく/少将)以下、約1300名が犠牲となった。救助されたのはわずか237名だったという。