日本の技術力を世界に示した国産超ド級戦艦の2番艦:扶桑型2番艦「山城」
日本海軍の誇り・戦艦たちの航跡 ~ 太平洋戦争を戦った日本戦艦12隻の横顔 ~【第6回】
空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第6回は、それまでイギリスなど先進列強の技術を学んできた日本海軍が、純国産で設計し、そして建造した超ド級戦艦「扶桑」型の2番艦で、1番艦の「扶桑」と共にスリガオ海峡海戦で戦没した「山城(やましろ)」である。

ごく初期の「山城」。後の日本戦艦の特徴となるパゴダ・マストではなく普通のマストが設けられている。
純国産の超ド級戦艦である「扶桑」型の2番艦「山城」では、「扶桑」で生じたいくつかの問題の解決が試みられていた。
たとえば、艦橋(かんきょう)の基部と艦橋甲板は、「扶桑」では分離していたが「山城」では第2砲塔に接続されている。また、「扶桑」では司令塔の形状が楕円形とされていたが、「山城」ではこれが円形になっている。他にも、「扶桑」と「山城」では船体外板の張り方が別々で、前者は従来の方法だったが、後者には本艦以降の国産戦艦で用いられる方法が採り入れられている。これら以外にも、測距儀(そっきょぎ)の配置場所とそのサイズの違いといった相違点が生じている。
この「山城」、1913年11月20日に横須賀海軍工廠(こうしょう)で仮称艦名第4号戦艦として起工され、翌14年10月12日に改めて「山城」と命名された。進水式は1915年11月3日。竣工は1917年3月31日である。
竣工後の戦間期は、演習や訓練での活躍が目立つ。1927年には御召艦(おめしかん)を務めている。さらに翌28年12月から1929年11月にかけては、連合艦隊の旗艦となっていた。
太平洋戦争が勃発すると、その中盤までは直接に火蓋を切る機会はなく、日本内地で演習と訓練に明け暮れた。そのため、艦全体が丁寧に手入れされていたが「山城」における訓練はきわめて厳しく、「鬼の山城、蛇の長門(ながと)」という言葉が、本艦での激しい訓練を象徴的に示している。
1944年10月の捷一号作戦では、「扶桑」と共に第2戦隊を編成し、同作戦によって生じたレイテ沖海戦に参加した。この時に「山城」は、西村祥治(にしむらしょうじ)少将が座乗する西村艦隊の旗艦を務めていた。
西村艦隊は、アメリカ軍艦上機による空襲などを受けつつも進撃を続けたが、10月25日未明、スリガオ海峡で強力なアメリカ艦隊の待ち伏せに飛び込んでしまった。この罠の中で、まず「扶桑」が轟沈。西村は残る重巡洋艦「最上(もがみ)」以下、駆逐艦(くちくかん)4隻を率いて果敢に進撃を続けたが、やがて「山城」も被雷。「われ魚雷攻撃を受く、各艦はわれをかえりみず前進し、敵を攻撃すべし」と西村は発したが、これが彼の最後の命令となった。
直後、アメリカ側は最初に重巡洋艦部隊、続いて戦艦部隊が砲撃を開始し、「山城」の被弾は数多にのぼった。そして総員退去が命じられたものの、それからわずか2分ほどで転覆し沈没した。
当時、「山城」には約1500名が乗り組んでいたと思われるが、生存者はアメリカ軍によって救助されたわずか10名のみ。西村も戦死している。