大人数の兵士や軽戦車の空輸を目指した大型軍用グライダー【まなづる】
「日の丸」をまとった幻の試作機 ~ 日本が誇る技術陣が生み出した太平洋戦争における最先端航空機たち【第5回】
太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第5回は、空挺部隊が戦場に軽戦車を持ち込めるように重量物が搭載可能な軍用グライダーとして開発された、日本機としては珍しい双胴の「まなづる」である。

着陸態勢に入った「まなづる」。一見すると日本機らしからぬデザインの機体ともいえる。飛行性能が良好だったため、エンジンを搭載するキ105の開発へとシフトした。
日本陸軍は、空挺部隊の戦闘能力の向上に向けて、搭載重量の大きな軍用グライダーを発案した。搭載重量が大きければ、一度に大人数の兵士を輸送できるだけでなく、軽戦車や火砲といった重い兵器ですら、空から最前線に送り込めるからだ。
特に陸軍は、当時最新だった九八式軽戦車を空輸できる能力を求めた。そしてさらに、貴重な軍需物資節約の観点から、可能な限り木製で造ることも要求した。というのも、一度最前線に送り込んだグライダーは、戦況や損傷の具合によって事実上その回収は困難と判断され、できるだけ簡便、かつ廉価で造れるようにと考えられたからだ。
1942年2月、陸軍からの発注を受けた日本国際航空工業では、益浦幸三技師を責任者に据えて、その開発と設計に着手した。
一般的な航空機の胴体は、中央部が最も太く、前端と後端に行くにしたがって細くなる。そこで大搭載量を得るため、細くなって人員や荷物が積みにくい胴体後部を双胴化し、その一方で中央胴体を太いままにして、後部に上下に開閉する胴体直径と同サイズの扉を設けた。
また、中央の胴体と各動翼の骨格こそジュラルミンが用いられているが、その他の部分は、全てが入手と加工が容易な木で造られていた。
強度試験用に造られたク7Iは1943年1月に完成し、強度試験だけでなく各種の試験が行われた。そしてこの試験の結果を反映した実用型となるク7IIが造られ、1944年8月に試作機が初飛行した。
搭載重量は約7トンで、兵員なら最大40名、車両なら予定通り軽戦車の搭載も可能であった。しかし一方で、このような大重量のため、曳航(えいこう)には100式重爆撃機「吞龍(どんりゅう)」や4式重爆撃機「飛龍(ひりゅう)」が使われる予定だった。
本機には「まなづる」の愛称が付与された。しかし戦況の変化などもあり、エンジンを取り付けて自航できるようにすることになり、改めて動力機型がキ105として開発を進められた。そのため、結局のところ滑空機型はク7Iとク7IIの2機しか造られなかった。
なお、「まなづる」の連合国軍識別コードネームはGander(ガンダー)であった。