攻撃機から特攻機への変身、「日の丸」をまとった幻の試作機:特殊攻撃機【剣】
「日の丸」をまとった幻の試作機 ~ 日本が誇る技術陣が生み出した太平洋戦争における最先端航空機たち【第3回】
太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第3回は、各種の資源が欠乏した日本が省資源と生産の容易化を目指して開発。当初は攻撃機だったものが、後には特攻機として生産が進められた「剣(つるぎ)」(海軍名「藤花/とうか」)である。

終戦直後、アメリカ軍に接収された「剣」。実用化こそ急がれたものの、実戦には1度も使用されなかった。
1944年10月、日本海軍航空隊は、禁断の攻撃手段である体当たり攻撃(カミカゼ攻撃)を実施した。今日であれば、無線誘導のドローンを敵に突っ込ませればよいが、エレクトロニクス技術が遅れていた当時の日本は、信頼性の高い誘導装置を造れなかった。そこで、「生身の人間」パイロットを誘導装置の代わりに使うことにした。つまり、誘導装置代わりになったパイロットは、そのまま敵に突っ込んで爆死するため、生存できる可能性は全くのゼロという「必死」の戦法である。
このような攻撃方法を発想した時点で、すでに戦争には勝てないと悟り、終戦のための算段をするのが「普通の国家」の国家指導者の発想だが、当時の日本は「普通の国家」ではなかった。そして犠牲になったのは、このような非道な戦法を発想した海軍上層部ではなく、愛国心に燃えた現場の勇敢な若者たちだった。
しかし、手持ちの航空機をカミカゼ攻撃に投入すれば、いずれ日本は航空機不足になる。そのうえ、この時期の日本はさまざまな素材の欠乏に苦しんでいた。
そこで中島飛行機の青木邦弘技師を設計主務者に据えて、1945年1月から、三鷹研究所にて突貫作業により、新しい特殊攻撃機の開発が進められた。
キ115「剣」と命名された本機は、構造の簡易化と軽量化のため、主脚は離陸後切り離して地上に落とし、再利用する考え方をされていた。出撃後、敵艦隊を爆撃したら海岸の砂浜に胴体着陸し、エンジンは回収されて再利用。パイロットも生還するものとされていた。
「剣」には甲型と乙型があるが、前者は、胴体部は鋼管(こうかん)製の骨組に鋼板の外板を被(かぶ)せた構造で、主翼には貴重なジュラルミンを使用し、尾翼は木製だった。また、後者は前者の主翼を木製としたもので、主翼の面積を増やし、コックピットを前方に移動させて視界が改善されていた。なお、前者の最大速度は主脚投棄後で約550km/h(ただし推定)、巡航速度約300km/hであった。
このように、「剣」は当初は省資源で生産を容易化した攻撃機として開発され、機関銃を装備せず敵機との空戦能力はなかった。そして、折からのカミカゼ攻撃の頻発を受け、体当たり攻撃機化することが考えられた。
しかし「剣」の評価を担当した高島亮一首席審査官は、本機は航空機としては欠陥があまりにも多く、操縦には高度の「腕」が必要とされたため、その改修が急務と結論付けた。
にもかかわらず、設計上、小規模な工場でも生産できる構造とされていたので、終戦までに100機以上が造られていたと伝えられる。しかし1945年3月に試作機が初飛行こそしたものの、1度も実戦に用いられることなく終戦を迎えたのだった。
また、海軍も「藤花」と命名して海軍向けのエンジンが異なるバージョンを運用する予定だったが、こちらは計画だけで終わった。