フィリピンでの「日本陸軍初陣」は成功するも戦局の悪化により活躍の場は広がらず
陸軍、海に潜る! 試作艇、完成す
海軍の顔色を伺うことなく、自前で物資運搬を行いたい。こうした陸軍の悲願、自前の潜航輸送艇「まるゆ」が遂に完成した。いよいよ実戦に投入となるが、戦場はすでにフィリピン攻防という段階となっていたのである。

艇尾に旭日旗ではなく日章旗を掲げて航行するまるゆ。海軍には「どのような形で、大きさはこれくらい」というような詳細を伝えていなかったため、敵艦と認識されたこともあった。輸送船に体当たりされたこともある。
陸軍が悲願とした輸送潜水艇「三式潜航輸送艇(通称まるゆ)」の1型が就役し、暁部隊と呼ばれる陸軍船舶司令部直轄の第一、第二潜航輸送隊に配備されたのは、戦況が悪化の一途を辿っていた昭和19年(1944)になってから。すでに当初の量産計画は、絵に描いた餅状態となっていたのである。
なにしろ航続距離が8ノットで約1500海里しかなかったため、少し遠くに行くには給油用の母船が必要となってしまう。さらに潜航が可能だとはいえ、潜っている時はほとんど海中でじっと休んでいた。という具合に日中は潜って休み、夜間に浮上して航行するというものだったので、目的地に到達するまで多くの時間を要してしまったようだ。
おまけに艇内にはトイレもなく、一斗缶で代用。つまり浮上して基地に帰るなり、母船と遭遇しない限り、汚物の処理もままならなかったのだ。海軍の潜水艦と比べ、機器類も圧倒的に少なかったため、経験に頼らざるを得ないという、不安だらけの船出であった。
昭和19年5月、元戦車兵で潜航輸送教育隊隊長を務めていた矢野光二中佐は「まるゆ3隻をフィリピンのマニラに派遣せよ」という命令を受ける。1隻あたりの乗務員は26名、基地隊や交代要員223名を乗せた潜水母艦を随伴。派遣隊指揮官は、やはり元戦車兵の青木憲治少佐が任命された。
こうして陸軍輸送潜水隊4隻は、総勢302名を乗せ、船舶司令官鈴木宗作(すずきそうさく)中将に見送られ宇品(うじな)港を出港。51日間の航海の末、7月18日にマニラに到着した。この時、マニラに在泊していた日本海軍の軽巡洋艦(球磨型軽巡洋艦大井と推察されている)から、「汝は何者なるや? 潜水可能なるや」という信号を送られた。この屈辱的な打電に対し、まるゆ側は「帝国陸軍の潜水艇也。(潜水の可否については)返答の要を認めず」と返電。

レイテ島の日本軍陣地に対し、猛烈な艦砲射撃を加えたアメリカ軍。炎上した日本軍の基地から黒煙が上がった。こうした基地への補給のため、3隻のまるゆはマニラを出撃。この初陣で2隻が無事に物資を輸送できた。
マニラで外洋航海の際に傷付いた船体の修理や機器の調整を行っているうちに10月を迎え、アメリカ軍がフィリピンに来襲。それに伴い、大本営は捷一号(しょういちごう)作戦を発動した。まるゆはレイテ島地上戦に伴う輸送作戦「多号作戦」に駆り出されることとなる。
しかし11月11日、レイテ島への輸送は、第二水雷戦隊に護衛された輸送部隊がオルモック湾で空襲を受け、駆逐艦朝霧(あさぎり)を除き全滅するなど、地上部隊への輸送は完全に行き詰まっていた。第14方面軍司令官の山下奉文(やましたともゆき)大将は、第三船舶司令部に対して「レイテ島への軍需品・糧食輸送」を厳命した。それにより3隻のまるゆは、レイテ島への輸送作戦を決行することとなった。
11月26日、青木憲治少佐指揮下の3隻のまるゆはマニラを出撃。青木少佐が座乗した2号艇は、潜航装置が故障していたが、そのまま出撃している。アメリカ側はレイテ島周辺に水雷戦隊や魚雷艇を配備。PBYカタリナ飛行艇による哨戒(しょうかい)も行われていた。そのため潜航できない2号艇はすぐに発見され、11月27日午前1時30分頃、フレッチャー級駆逐艦4隻に撃沈されてしまう。
だが残る2艇は潜航して攻撃をやり過ごし、同日中にレイテ島に到着する。届けられた物資は精米600梱、救急食50梱、バッテリー30梱、大発動艇修理部品若干であった。これはじつに17日ぶりに行われた、レイテ島への物資補給であったのだ。同時に、陸軍潜水輸送艇初の実戦使用であり、成功でもあった。
陸揚げに成功した2艇は、その後マニラに帰投する。だが敵の空襲が激しく、港湾機能が喪失されたため、残存部隊はルソン島北西部のリンガエン湾に退避することとなる。まるゆ2艇も同地へと移動した。
明けて昭和20年(1945)1月2日、ミンドロ島から飛来した連合軍爆撃機がリンガエン湾を空襲。まるゆ1号艇は洋上退避を試みたが、そのまま浮上してくることはなかった。そして1月5日の空襲では、3号艇も失われてしまう。生存していた乗組員は、そのまま地上戦闘員となった。
世界で唯一といっても過言ではない、陸軍保有の潜水艇まるゆ。そのチャレンジ精神は賞賛できるものの、結果的には陸海軍不和を象徴するようなもので終わってしまった。

1943年、日立笠戸工場で建造中のまるゆ「下松型1号艇」。計画では400隻以上を建造することになっていたが、最終的には完工が38隻、未完が1隻にとどまった。うち5隻が喪失し、未完を含む34隻は引退扱いとなる。